大福寺の三十三観音

三ヶ日町の街並みを抜けて国道301号を新城に向かって北へ進むと「大福寺方面は右折」の案内板がある。東名高速道路をまたいで直ぐに「大福寺入口」の大きな案内の石碑が出ているので分かりやすい。1分ほど走ると直ぐに赤い大きな仁王門に出くわす。ここから歩いても良いのだが、山門の直ぐ前の駐車場まで車を走らせる。久し振りに訪ねたら付近の様子が大分変わっていた。何と山門の前の駐車場のすぐ南側の地下を第二東名高速道路が横断していて工事の最中であった。仁王門からの参道は高速道路で途中からカットされてしまった。第二東名をまたいで大福寺にお参りすることになる。これも時代の流れで仕方が無いのか、随分まわりが賑やかになってきた。

地蔵菩薩車を降りて参道を歩くと周りに二体が対になった地蔵菩薩がずらりと並んでいた。本堂の周りにもかなりあり、一体何対あるのか数えてみたが、余りに多くて途中で分からなくなってしまった。駐車場の横にも20対ほどあったので、全部では80対ぐらいあるのだろうか。地蔵菩薩の並んだ参道を登ると左に山門、こちらをくぐれば住職の住宅と庭がある。正面に大きなイチョウの木が天を突いていた。秋には見事に黄色く色ずき、黄色の絨毯を敷いたようになる。今日のお目当ては三十三観音なので、参道を更に北に進むともう一つ小さな山門があり、正面に朱塗りの本堂がある。大福寺は正式には「瑠璃山大福寺」という。貞観17年(西暦875年)教待上人が鳳来山に幡教寺を開創し、300年を経て承元3年、現在地に移された。大福寺と言えば「大福寺納豆」が大変有名である。ここの浜納豆は山椒の皮を一緒に漬け込むのが特徴だそうだ。

三十三観音さて、本堂前の山門をくぐると、すぐに左側に四角な石の三面に三十三観音像が彫られた石碑がある。寛政7年(1795年)の作である。三十三観音とは、観音様がいろいろな形に身を変え人々を救おうとの考えから生まれたもので、三十三の観音様を集めた総称である。四国三十三観音を巡るのは日数も費用も掛かる。そのため近世になって全国各地に三十三観音が設置された。今流に言えば、一ヶ所で三十三の観音様のお参りができるように効率化を図ったのである。西国三十三霊場、三十三間堂などに見られる「33」という数字はここに由来する。「三十三観音」は、法華経の諸説に基づき、近世日本において信仰されるようになったもので、法華経の中にこれら三十三の観音の名称が登場するわけではない。

ちなみに三十三観音の名称は、天明3年(1783年)に刊行された「仏像図彙(ぶつぞうずい)」という書物によると次のようになるが、この中にはインド起源にもの、中国や日本で独自に発達したものなど、起源はまちまちである。

(1)陽柳(ようりゅう)(2)龍頭(りょうず)(3)持経(じきょう)(4)円光(えんこう)(5)遊戯(ゆうげ)(6)白衣(びゃくえ)(7)蓮臥(れんが)(8)滝見(たきみ)(9)施薬(せやく)(10)魚籃(ぎょらん)(11)徳王(とくおう)(12)水月(すいげつ)(13)一葉(いちよう)(14)青頚(しょうけい)(15)威徳(いとく)(16)延命(えんめい)(17)衆宝(しゅうほう)(18)岩戸(いわと)(19)能静(のうじょう)(20)阿耨(あのく)(21)阿摩提(あまだい)(22)葉衣(ようえ)(23)瑠璃(るり)(24)多羅尊(たらそん)(25)蛤蜊(こうり)(はまぐり)(26)六時(ろくじ)(27)普悲(ふひ)(28)馬郎婦(めろうふ)(29)合掌(がっしょう)(30)一如(いちにょ)(31)不二(ふに)(32)持蓮(じれん)(33)灑水(しゃすい)

当然一つ一つに謂れや意味があるのだろうが、とてもまだ調べられないし、第一覚えきれない。またいつか時間があったら書物を開いてみようと思うがいつになることやら。(2007・5・13)

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