アンドレの“つぶやき”

「デジタル喫茶店」のマスター<アンドレ>が日頃感じている事などを気ままに綴っています。

固定電話受難時代

今月女性Sさんに連絡したいことがあって、名簿に記載されていた固定電話にはじめて電話した。呼び出し音はするが出なかった。在宅しているだろう時間にもう一度かけ直したがやはり出なかった。彼女と親しいOさんにSさんの携帯電話番号を知っているか聞こうと、固定電話に電話したが出なかった。もう一人のMさんにも聞いてみようと電話しても出ない。昔もらった会員名簿には固定電話の番号しか載っていない。 後で聞いたら固定電話は鳴っても出ないことにしている。常に留守番電話にしている。ナンバーディスプレーで確認して知っている人しか出ない。一人は固定電話の線は抜いてある・・・とのことだった。 最近の固定電話にかかってくる電話はセールスか詐欺の電話、強盗の下見の電話ばかりだ。親しい人はほぼ100%携帯で連絡し合っている。 我が家も固定電話は常に留守電に設定、ナンバーディスプレーで知らない番号は出ない。ただFAXを1ヶ月に1回程度利用することがあるので止めるわけにいかない。今の若い人たちは固定電話は必要ないので契約しない。携帯電話の普及とインターネット技術の普及で、固定電話はいずれなくなる運命にある。 NTTも固定電話の需要減で2024年から順次公衆交換電話網からIP網(インターネット・プロトコル)に通信網を移行する計画とのことだ。(2024.1.20)

保育園新設断念

「保育園落ちた」ブログを機に政府も待機児童解消対策を急いでいるが、全国的に保育園新設が近隣住民の反対で断念している例が多いことが分かった。その多くの住民の声は「子供の声でうるさくなる」というものだ。昔は3世代同居が当たり前で、家の中で小さな孫たちがワイワイガヤガヤとやかましい中で一緒に暮らしていた。今は全国どこでも超高齢化社会でしかも核家族社会、お年寄りだけの静かな環境で暮らすようになった。隣に急に保育園ができると子供の声がうるさいというのも分からないではない。「じゃあ、あなたならどう思う」、と言われると「うーん!」となってしまう。少子化の中で子育ては大切だ。「必要なのはわかるが、うちの近くには来てほしくない」というのが本音で、こうした問題はほかにも沢山ある。ごみ焼却場、火葬場、お墓…などいろいろ、原発もそうかもしれない。みんなが納得する決定的な解決策は見つからない。(2016.4.28)

個人情報管理の難しさ

最近思うのは、多くの人間の中には常識では考えられないような考えを持つ人間がいて、これまた常識では考えられないような事件や事故が多く発生している、ということである。その中の一つ、埼玉県朝霞市の女子中学生監禁事件である。少女の名前をフルネームで呼ばれたという疑問に対して容疑者は「自宅前にあった少女の傘に書いてあった名前で確認した」と供述しているという。幼稚園や学校へ行く子供の持ち物にはすべて名前を書いたり名前のシールを貼っておくのが常識である。しかし、このような事件が起きると名前を書くのは個人情報の漏えいにつながり犯罪に巻き込まれかねない事態になってしまうということだ。知らない人について行ってはいけないよ、と教えられていても、フルネームで呼ばれれば知っている人かもと思うのは無理からぬことだ。困った時代になったものである。個人情報の管理の難しさを感じてしまった。(2016.4.2)

他人の気持ちを理解しない人たち

人間関係について子どもを教育するとき「自分がされて嫌なことは他人にしてはいけないよ」、と注意することがよくある。特に“いじめ”などはその代表だろう。これと似たようなことをよく経験する。今日も車にガソリンを入れようとガソリンスタンドに行ったら夕方の時間帯で数台並んでいた。なかなか空かないので見ていると、もう既にガソリンは入れ終わっているのに、その場でのんびりと窓を拭き始めている客がいる。他の客がガソリンを入れたくて並んでいるのにである。それもすべての窓を拭き始めた。窓を拭くのは場所を移動してからゆっくりやればいいと思うのにだ。他人の気持ちをまったく理解できない大人たちである。こういう大人が最近多くなったような気がする。この光景はどこでもよく見る光景であるが、こういう人たちの人間関係の考え方はどうなっているのだろう。おそらく「他人の気持ちを思いやる」ということは、この人にはないのだろう。(2012.5.6)

地上デジタル放送完全移行

人間切羽詰まらないとやらない人が多い。2011年7月24日正午、テレビ放送は60年続いたアナログ放送からデジタル放送に完全移行した。とたんに全国から各放送局や総務省に電話相談が相次ぎ、「テレビが映らなくなった」「チューナーが品切れだった」などの電話が15万件近く殺到したという。本当にそうなるとは思っていなかったとでもいうのだろうか。2,3年も前から政府も放送業界も電機業界もアナログ放送終了のPRをし続け、1年前からは毎日のようにNHKテレビの番組の中でPRし続けていた。ちょうど我が家は1年前に長年使い続けてきた26インチのアナログテレビが調子が悪くなってしまったので、エコポイントを利用して45インチのデジタルテレビに買い替えていた。面積にして4倍になった画面に、初めは随分大きな画面にビックリしたが、慣れてしまったらそんなに大きく感じなくなってしまった。慣れとは恐ろしいものである。女優の顔のしわも鼻毛までもくっきり鮮やかに映ってしまう。これからテレビに出る人はお化粧が大変である。それにしても事情もあるのだろうが、切羽詰まって慌てて対応する人が結構いるものである。(2011.7.24)

原発事故の恐ろしさ

2011年3月11日午後2時46分、三陸沖にマグニユード9・0の超巨大地震と大津波が発生し、東日本一帯の沿岸地域に未曽有の被害をもたらし、街という街が壊滅状態になった。このことは「青春日和」NO.65に書いたが、地震と津波は避けようもない自然災害で天を恨むしかないが、問題は地震と津波で引き起こされた事故とはいえ、原発事故は人災である。原発は事故が起きると大変だという話はいつも聞かされていたが、現実に日本で大事故が発生してしまって、その恐ろしさと影響の大きさに驚いている。チェルノブイリ原発事故と同じ危険度の「レベル7」に引き上げられ、事故の終息のめどが未だについていない。放射線に汚染された地域は、その後何十年も住むことができなくなってしまうかもしれない。こんな危険な原発の、万が一の事故に対して、技術的に対策が確立されていなかったことが露呈してしまった。地震や津波の想定が甘かったことも専門家が認めている。想定外の災害に対応できないのであれば、地震大国日本では原発は無理である。毎日の天気予報と同じように、毎日の放射線の観測値が新聞に載るようになってしまった。(2011.4.6)

婚活、就活・・・短縮語の流行は日本語の乱れか?

デジタル時代の文化ということか、近頃やたらと短縮語が流行っている。婚活、就活、アラフォー、モバゲー等、数え上げたらきりがない。携帯電話が流行してから特に流行してきたような気がする。携帯電話ではできるだけ文字数は少ないほうが良いわけで、パソコンもデータの圧縮が大きなテーマである。情報量をできるだけ少なくして、しかも内容が分かるように伝えないといけない、というところがデジタル時代の課題である。しかしおじさんの年代になると、なかなか新しい時代についていけないのが実情である。 文化は時代とともに変化していく。ちゃんとした公共機関でも短縮語を使っている。もっとも、考えてみればデジカメもパソコンも短縮語だし、大正時代にもモダンボーイをモボ、モダンガールをモガと言っていたらしい。短縮語が流行っているから日本語が乱れている、などと単純に嘆くのはよそう。(2010.10.16)

夢を持たなくなった若者

企業は固定費のかかる正社員をできるだけ減らして、人件費の安い派遣社員やアルバイトで労働力を得ようとする。高校、大学の新卒者の就職難がずっと続いている。2年後に望みをかけて大学院へ進んだが、やはり就職できなかったという若者もいる。真面目に努力しても報われない時代が続いて、今の若者たちは将来に夢が持てなくなった。正社員を諦めて派遣社員、アルバイトで生活する。そして夢を持たなくなって、初めから責任のある正社員を敬遠して派遣、アルバイトで生活する。それも諦めてニートになる。所得格差がどんどん広がる。デパートも売り上げがどんどん落ちて都会の一等地から老舗のデパートが姿を消す。スーパー並みの品ぞろえをするデパートも出てきた。スーパーも安売り競争でしのぎを削っている。1億総中流と言われた時代はもう昔の話で、いま自分が中流だと思っている人がどれだけいるだろうか。ある大学では海外留学の枠を作って学費も大学で負担するというのに学生の応募がないという。社会人の海外勤務も敬遠されるという。「そんなリスクを負ってまでしたくない」のが本音のようだ。「若い時の苦労は買ってでもせよ!」の言葉は今は通用しない。「草食系」の言葉が流行するように、今の若者は野望を持たなくなった。<クルマ>や<恋愛><結婚><活字><マージャン>・・・・にも興味を持たなくなった若者が増えているという。結婚したくても経済的に結婚できない、初めから結婚には興味がない若者が増えて、ますます少子化が進む。超高齢化社会の対策と同時に、若者が夢を持てる活力ある社会づくりを考えないと日本の将来は暗闇のトンネルから抜け出せない。(2010.8.20)

来場80万人目のお客様

浜名湖立体花博がはままつフラワーパークで9月19日から開催されて11月23日に無事最終日を迎え閉幕しました。途中台風に見舞われ、1日休業するアクシデントもありましたが、作品に被害がなかったのはほんとに良かった。私も仕事がらみの取材で開幕前に2回、開幕してから1回、前売り券も買ってあったのでもう1回、都合4回も行きました。目標の80万人も11月21日に達成したそうでおめでとうございます。ところでめでたく80万人目に選ばれたお客さんは、子供さん2人と一緒に入場した湖西市のご家族で、市長から記念品が授与されました。よくイベントなどで何万人目かの来場者に記念品が贈呈される対象者は、ほとんどが可愛らしい子供さん連れの家族が選ばれます。いわゆる「絵になる家族連れ」と相場が決まっています。間違っても老人が一人で入場しても選ばれることはありません、念のため。(2009.11.23)

日本の食の安全の崩壊

不二家、ミートホープ、赤福、船場吉兆、日内鶏、ウナギ、中国餃子、そして汚染米、まだまだ沢山ある。産地偽装、消費期限偽装、農薬汚染、数え上げたらキリがないほど次から次と表面化している。まだ表面に出ていないものはいくらでもあるような気がしてならない。ラベルの表示に「国内産」と書いてあっても。100%信用できなくなってしまった。日本の食の安全は完全に崩壊してしまったのか。日本の食の基準は厳しいから健康にはほとんど影響はない、などと政府が言い訳をしているが、そう言う問題ではない。人間として一番してはいけないことは、「嘘をつく、人をだます」ことである。失敗や過ちは誰にでもあるが、「嘘をつく、人をだます」ことだけは絶対にしてはいけない。嘘は必ずいつかバレル日が来ることを、肝に銘じることだ。嘘さえ付かなければ人間は「正々堂々」と自信を持って生きていける。それにしても中国の食品の農薬汚染は想像以上のひどさである。ますます自分の身は自分で守るしかなくなった。(2008.9.23)

「すみません!」のひと言が言えない若者たち

街の中心街に出かけるときは良くバスを利用する。最近はプリペイドカードが主流となって、いちいち小銭を用意しなくて済むので便利になった。バスが混んできても隣の席に大きなバックを置いてタヌキ寝入りをしている若者が時々いるのは腹立たしい。なかには、「すみません!」と、若者をタタキ起して席を空けさせる元気なおばちゃんもいるが、大方の大人は見て見ぬふりである。窓際に座っていた女子学生がソワソワしだしたので、「次のバス停で降りるのだな!」と、こちらで気を使って、バスが止まるころ立ち上がったら、何も言わずにサッサと降りて行った。こういう光景はよく目にする光景である。特に女子学生に多い。降りたいのならどうして「すみません!」の一言が言えないのだろうか。最近の子供は他人とのコミュニケーションがうまく取れないケースが多い。やがて彼らも大人になって人の親になったとき、子供にどんな教育をするのだろうか。考えると将来が心配である。(2007.8.20)

久し振りに感動した話題

2月6日、東京板橋区東武東上線ときわ台駅で、自殺しようとした女性を助けようとして、自分の体で女性をかばい電車にはねられて亡くなった宮本警部の勇気ある行動のことである。その誠実な人柄が住民みんなに親しまれていたことを知り、日本にも未だこんな素晴しい人がいたのだと感動した。みんなの願いもかなわず残念ながら亡くなってしまったが、住民みんなから千羽鶴や花束が数多く寄せられ、葬儀の日には600人以上の多くの参列者が訪れ記帳したそうだ。喪主の奥様が「・・・・・主人のこの度の行動を誇りに思います」と、涙ながらに挨拶された姿に胸が熱くなった。毎日暗いニュースばかり多い中、久し振りに感動した話題であった。(2007.2.17)

現代人は物事の「本質」を忘れている

尼崎市のJR福知山線で起きた電車脱線事故は、死者100人以上を超えるJR発足以来の大惨事となってしまった。この事故は単にJRの問題だけではない。現代日本社会の歪が顕著に露呈してしまった感がある。人を大勢乗せて運ぶという、本来「安全」が最優先されなければならない電車が、その本質を忘れて、時間管理優先、スピードが優先されてしまったことだ。利用する我々もそれがサービスだと勘違いしているところがある。特に日本は外国に比べ時間管理が厳しく完ぺき主義で、現代人は生活時間にゆとりがなくなっている。少しでも時間に遅れようものなら許さないというところがある。日本人の完ぺき主義を改めない限り、惨事は繰り返される。現代の日本のサラリーマンは能力主義、実績主義、効率化優先、会社の利益優先でがんじがらめに管理され、社員の人間性は犠牲にされ、精神的障害者が増加しているという。そんな管理社会になじめない若者が益々増えて、フリーターやニート族の増加を生んでいる。今度の事故も、そんな若い運転手の精神的プレッシャーが大惨事を招いてしまった。(2005.4.29)

「おいてきぼり」にされないように

昔、釣りをすると、池の中から「置いてけ」の声が聞こえて、釣った魚を全部池に返すまで声が止まなかったので、「置いてけ堀」と呼ばれた不思議な池が江戸にあったそうだ。「おいてけぼり」が「おいてきぼり」の語源になったという。「おいてきぼり」は置き去りにする意味にも使われる。
今や、情報技術分野の技術革新は目ま苦しく、パソコンやインターネットを使える人は利便を享受できるが、そうでない人は、どんどん置いていかれる。愛知万博では、初めてインターネットを使った観覧予約システムが導入された。1日の収容人員の2割をインターネットで事前予約を受け付けるシステムである。人気館に行列を作らない為だが、パソコンを使えないお年寄りは、このサービスを受けられないので、やはり行列に並ばないとは入れない。お年寄りから「不公平だ」の声が出るのは当然である。
ライブドアの堀江社長は、10年後は今のテレビはなくなると予言している。今の技術革新のスピードから考えると、彼の予言はある意味で的外れとは思えない。10年後には「年寄りだからパソコンもインターネットも出来ません」などと、甘えていられない時代が間違えなくやってくる。(2005.3.20)

地震予知

「天災は忘れた頃にやって来る」というが、近頃は忘れる暇もなくやって来る。またまた地震大国日本で大きな地震が発生した。10月23日(土)夕方のことである。「新潟県中越地震」と命名されたこの地震の特徴は、震源地の浅い直下型であり、余震の規模の大きいことと多いことである。 今回は山間部の人口密度の少ない地域での地震であった為、阪神大震災に比べ、人的被害こそ少ないが、被害状況を見ると可なりの規模である事が わかる。新幹線が開業以来初めて直接地震に見舞われた。よくもあの程度の被害で済んだものだ、と胸を撫で下ろす。
東海地震が来ればこんなものではないと言う。M8が予想されているが、これは今回の地震の約60倍の規模だと言う。こちらは人口密度も高く、東名高速道路、東海道新幹線など、その被害は可なり大規模なものと予想される。
しかし大きな地震が来るたびに思うのは、地震予知など出来たためしがないと言うことである。別に専門家を責めている訳ではない。地震予知が如何に難しいか、ということである。もし東海地震が来たら自己責任で対処するしかないと思っている。「備えあれば憂いなし」大きな地震が来るたびに我が家の地震対策を 見直さなければと真剣に考える。早速備蓄用のペットボトルの水の入れ替えと、非常食の補充をしたところである。(2004.10.26)

敬老会は自分で自分を祝う会?

最近自治会の役員をやっていて、つくづく思うことがありました。そろそろ9月15日の敬老会の準備で忙しくなりました。敬老会の本来の趣旨は何でしょう。「人生の先輩であるお年寄りの永年の労苦に敬意を表し、地域発展の為の尽力に対し感謝する」・・・と言うようなことでしょうか?。本来、もっと若い人たちが計画、準備をして、お年寄りを招待するべきではないでしょうか。しかし、現実はどうでしょう。自治会の役員は殆どが定年退職した高齢者ばかり、敬老対象者も可なりいます。敬老対象者とその予備軍自ら、敬老会の計画、準備をして、しかも、敬老会当日は、主催者も観客席も、舞台で余興の演技をする人も殆どが敬老対象者及び一歩手前の予備軍ばかり。これでは何の為の敬老会なのか分かりません。もっとも計画も準備も結構頭と身体を使いますから、お年寄りのボケ防止にはなります。 ・・・などと、もっともらしい結論が出ました。(2003.8.20)

人類は無事22世紀を迎えることが出来るか

21世紀に入って3年目、とうとう21世紀も地球上から戦争をなくす事が出来なかった。テロの脅威と不安は相変わらず続いている。核の脅威も日本にとっても身近な問題になってきた。原子力発電所が安全性を問われて、大部分が稼動できず、首都圏では今年の夏、大幅に電力不足に見舞われるかも知れないらしい。20世紀最大の疫病と言われたエイズに続いて今度はサーズだという。耳にタコが出来るほど毎日報道されている。現代社会が進展していくと共に、サーズのようなウイルスが再び出現する可能性は否定できないと言う。エイズ、サーズの次はターズ?か。輸入野菜は農薬がたっぷり掛かっているし、養殖の魚まで寄生虫予防の為、薬品が大量に使われていることが分った。地球上に平和と安全は永久に来る事は無いのだろうか。22世紀と言えばひ孫の世帯である。そこまではとても心配しおせないと思う今日この頃である。(2003.6.10)

“良い水”はお金で買う時代

“水をお金で買う”という意識は欧米では当たり前でも、水資源の豊かな日本では、今まではなかった事です。レストランで水を注文してもお金は取りません。しかし、近年、こんな水の豊かな日本でも、スーパーやコンビニにはミネラルウォーターや何々名水、海洋深層水などが所狭しと並ぶようになりました。今や日本でも高価な水をお金を払って飲んでいるのです。値段も2リットルボトルで200円前後しますから、ほぼガソリン並みの値段です。それだけ日本の環境汚染が進んでおり、みんなの健康に対する意識も高まっているということでしょう。東京に住んでいる娘のマンションで、お湯を沸かしてお茶を入れると、浜松では緑色の奇麗な色の出るお茶も、茶色のお茶しか出ません。それだけ東京の水は水質が悪い為消毒の塩素が多いということです。水は毎日体内に入りますから、長い間悪い水を飲み続けると健康に影響がない訳がありません。昭和30年〜48年の高度成長期以降の人間は今の高齢者のようには長生きできないという学者もいるほどです。(2003.5.2)

有効期限と賞味期限

私は平成14年4月に満60歳の定年を迎え、第一線をリタイヤしました。いわゆる有効期限が切れた訳です。だからと言って、翌日から直ぐに仕事をする能力がなくなると言うことでは無いけれど、年寄りが何時までも頑張っていては、若い人達が何時までもポストにつけないし、就職も出来ない訳で、切りの好い所で一線を引くことは、社会の仕組み上仕方の無いことです。しかし、一方賞味期限の方は定年と共に人間としての味が落ちる訳ではなく、これは、本人の努力次第で何時までも良い味を保つことが出来るのではないでしょうか。それも、定年になってから慌てても遅い訳で、日頃の努力次第、若い時からコツコツと自分を磨いておくことが大切 です。 とは言え、もう年だから今更、と諦めてはいけません。何歳になっても新しいことに挑戦する事も必要です。私は若い時からいろいろな事に挑戦してきた事が今になって役に立っていますが、パソコンは57歳からの挑戦でした。お陰で現役時代よりも忙しい充実した楽しい毎日を送っています。(2003.4.8)

これは、ヤバイ!ことになってきました

最近、私は直前の行動記憶が全くなくなるという、これが老人性痴呆症か、と思うような症状を数回経験して、これは、ヤバイぞ!と、少しばかりショックを受けました。親しい人の名前をド忘れしてなかなか思い出せない、という類のものではありません。しかも数十分や、数時間前ではなく、せいぜい1,2分前の行動です。無意識に行った行動でもないのです。こう言うのがいわゆる“老人力がついた”と言うことでしょうか。私の脳の中のメモリーとディスクとの回路の接点が接触不良を起こしているのかも知れません。私は毎日パソコンに触っているし、このように文章を書いて、ギターも毎日練習して指先も使って、血液サラサラの食事にも気をつけて、ボケないようにと一生懸命脳みそが固まらないようにかき混ぜている筈なのに、これ以上何をしたらボケを防げるのでしょう。(2003.4.5)

子供は何処まで親の面倒を見る義務があるか

時々テレビのドキュメンタリーで田舎の親の介護をする為に子供が定年を前にして会社を退職して、自分の老後を親の介護の為に尽くすという話を聞きます。いわゆる老々介護です。親が80歳以上生きる現在では、子供はその時は既に60歳を過ぎてしまいます。親は子供を苦労して育てたのだから、今度は子供が親の老後の面倒を見るのは当たり前だ、と言われればそれまでですが、これからの子供は少子化により60歳過ぎてから、夫婦両方の親4人の介護は物理的、体力的に限界があります。子供の老後を年老いた親を介護する為に捧げるのも、順番とは言え何か割り切れない思いがします。私は出来ることなら、1956年のイタリア映画「鉄道員」の主人公のように、ある日居間の椅子でギターを弾きながら眠るように息を引き取って、何も知らずに台所で食事の支度をしていた奥さんが「ご飯ですよー」と、呼んでいる、あのラストシーンのような最後が理想です。(2003.3.29)

少子高齢化と核家族、そして超高齢化社会

21世紀は今まで誰もが経験したことの無い超高齢化社会を迎えようとしています。2002年10月1日現在の日本の総人口は1億2,743万5千人、その内65歳以上の高齢者が18,5%と、過去最高、出生児数は117万6千人で前年より9千人減の過去最低と発表されました。この傾向は今後益々進んでいくことは間違いありません。振り返って、我が家は私が60歳、妻56歳、3人の子供達は大学卒業後は皆な東京へ就職してしまいましたから、9年前から夫婦だけの2人暮らしです。周囲を見渡しても殆どの家庭が同じ状態です。昔は「老いては子に従い」で、老後(いやな言葉です)は、子供に従って行けばよかった訳です。しかし、現在は殆どが子供と同居しませんから、親は何時までも自立していかなくてはなりません。私は老後は子供に余り負担を掛けたくないし、頼るつもりもありませんが、しかし、それも限界があるのも事実です。(2003.3.20)

21世紀は「物」から「心」へ価値観が変化する時代

20世紀はひたすら「物の豊かさ」を求めて押し進んできました。特に戦後の日本経済の成長振りは目覚しく、物質面の豊かさは世界一と言えるでしょう。どこの家庭にも自家用車があり、それも2台、3台の家庭も珍しくありません。大型カラーテレビ、クーラー、冷蔵庫、洗濯機、パソコン・・・etc、これらは今や日本では贅沢品ではなく必需品になっています。(私達の子供の頃は想像さえ出来なかったことです)その結果はどうでしょうか。バブルの崩壊を機に日本の経済は一気に崩れ始め、不良債権問題、企業の倒産、リストラ、失業、就職難、官僚と政治家の腐敗振り、そして、国民の多くが精神的ストレスに悩み、殺人事件、児童虐待、自殺など、痛たましいニュースが後を絶ちません。物質的な豊かさや快適さばかり追求していく中で、どんどん利己的になっていく大人社会、これまでの経済一辺倒の文化による「競争と効率主義」の弊害は子供の世界にも浸透してきています。現在、中学校、高校はおろか、小学校でもなんと全国で13万人もの不登校児童が発生し、学校教育に不適応を示しています。学級崩壊は7〜8%に及び、残りの半数近くのクラスも何らかの兆候が見られると言われています。これでは日本の将来が案じられます。そして、みんなが気づき始めました。人間の本当の幸せは「物の豊かさ」ではなく「心の豊かさ」だと言うことを。(2003.3.10)