“金原明善”の名前は、遠州地方に生まれ育った人なら誰でも知っている。何をされた人かもだいたい知っている。しかし、郷土の偉人「金原明善翁生家」を訪れた人は何人いるでしょうか。そう言う私も地元に生まれ育ちながら、先日、4月27日に、生まれて63年目にして初めて訪れて見たのである。
安間町の旧国道沿いにそれはあった。道路の南側は「金原明善記念館」、その向いに立派な「金原明善翁生家」が大きな庭木に囲まれて建っていた。記念館の敷地の中に車を止めて降りたら、管理人らしき女性が一人、真夏のような日差しの中で草取りをしていた。「丁度今、館長さんは用事で出かけていますけど、どうぞごゆっくり」と、草取りの手を休めて話しかけてくれた。「おたくは金原明善の子孫の方ですか?」と尋ねたら、「いえいえ、私は管理を依頼されて働いているだけです。館長さんもそうです。子孫の方は財団の役員をしていますよ」と、答えられた。
「皆さんここへ訪ねてこられますか?」と聞いたら、「歩け歩け運動でここを通る人が時々訪れてくれますよ」と言った。記念館の入口に備えてあった記帳ノートには、4月24日に記帳された方が最後だった。3日ぶりに私が名前を記帳して記念館に入った。立派な金原明善翁の銅像が飾られてあった。ゆっくりと30分ほど丹念に資料を見せていただいた。
記念館を見た後、向いの生家をじっくり見て回った。豪農だった明善の生家らしく、大きくて立派な木造建築である。柱も梁も今時の建物の4倍はあろうかという太い木材である。1千坪はあろうかという広い敷地に、椎の木だろうか、青空高くいっぱいに枝を広げて、新緑が若草色に輝いてまぶしいほどでした。明善が亡くなってから既に82年が過ぎているから、築後100年は経っているだろうか。平成になってから、土台をコンクリートで補強したそうだが、さすがに痛みが激しく、部屋の中を上がって見ることはできなかった。
この建物は、当然市の文化財になっているものと思っていが、金原明善財団のいわば個人の持ち物だそうである。過去に市の文化財にという話もあったが、当時は市も台所が苦しく受け入れができなかったようだ。今にして思えば、文化財にして置けばよかった、と当時の市の関係者は述懐していた。やがては朽ちていく運命にある。
私は古い建物には目が無いほど好きである。10時半ごろから11時半まで、じっくり1時間かけて60カットほどをカメラに収めた。建物の外から中から、前から後ろから。裏の庭にお蔵も2棟建っていた。夢中で写真を撮っていたら、館長さんらしき男性が自転車で帰って来た。「こんにちは、お邪魔しています」「ああ!どうぞ」。お互いに一言ずつ挨拶して、私は撮影を続け、館長さんはすぐに記念館の事務室に入って書き物を始めた。少しお話を聞きたいと思っていたが、お邪魔しては悪いと思って、そのまま帰って来てしまった。(2005・4・27)