カメラ散歩“旧天竜市二俣町”

現在は平成の大合併で浜松市天竜区二俣町となった旧天竜市二俣町。いつもは水窪町や春野町方面に行くたびに、ただ通過するだけの町だった。日本有数の天竜川が中心部を流れ、面積の約8割が森林と言う自然豊かな環境にある。本田宗一郎が生まれた磐田郡光明村も旧天竜市内だ。徳川家康の長男、松平三郎信康が生母の政治的野心の犠牲になって自刃したという悲話が残る二俣城も、現在は二俣城址として石垣と土塁だけが残っているだけだが、町の中央部にある。信康公の位牌を祀った清瀧寺もすぐ近くにあった。

そんな二俣町を2007年11月に訪れて、4時間ほどカメラ散歩をした。私の健康法の一つでもある。年金生活者ゆえ、かみさんにも迷惑をかけずに、できるだけお金もかけないのが鉄則である。バックにペットボトルのお茶と家にあった昼食代わりのクッキーを入れて、もちろん肝心のデジカメを入れて朝9時頃出発。天竜浜名湖鉄道二俣駅の駐車場に車を止めて9時40分過ぎに散歩を開始した。2時間ほど歩きまわって、お昼は二俣城址のベンチに腰をおろしてクッキーとペットボトルのお茶だけ。そして再び午後のカメラ散歩に出かける。若い時は昼食をとるのも忘れて写真を撮るのに夢中になっていたことを思えば、随分のんびり贅沢な時間の過ごし方だ。そんなカメラ散歩で拾った風景を載せてみた。(2007・11・2)


JR掛川駅から新所原駅まで全長67.7km、37駅を結ぶ天竜浜名湖鉄道の中心駅、天竜二俣駅。昔は国鉄二俣線と言っていたが、1987年に民営化により第3セクターとなった。当初は軍事上の要請で、東海道本線が敵の攻撃により不通になった際のバイパスとして建設されたようだ。1940年の開業当時から使われている木造駅舎は国の登録有形文化財になっている。2面3線のホームを有し、無人駅の多い中、駅員がいる有人駅で、天竜浜名湖鉄道の本社も設けられている中心駅だ。駅の前に「天竜下り」の看板が立っていた。ここから船乗り場まで無料の送迎バスが出ているようだ。船下りは大人2,300円とあった。私はまだ天竜舟下りは経験していない。3/20から11/30まで運航している。天竜浜名湖鉄道の駅には食堂やレストランが入っている駅舎が多いのが特徴だ。天竜二俣駅にも「菜めし田楽」の大きなブルーの看板がよく目立つ。
天竜浜名湖鉄道は単線で普段は1両だけの、いたってローカルな列車である。時間表を見たら朝夕の出勤・登下校時間帯は1時間に2本、その他の時間帯は1時間に1本だった。駅の東側に車両基地(機関区)がある。今は全車ディーゼルカーだが、蒸気機関車時代の扇形庫と転車台がそのまま使われてる。機関区建物、扇形庫、転車台は国の登録有形文化財になっており、いかにも古めかしい施設だ。残念ながら普段は一般の人は入れないので外から眺めるしかない。
二俣駅の構内にキリンの頭が見えた。ミニ動物園でもあるのかと駅のホーム側に回って近づいたら、何と焼却炉の煙突だった。なかなか洒落た焼却炉だ。木造駅舎の裏に回ると、そこにはいかにものどかな田舎の駅の風景があった。ここが本社のある一番の中心駅とは思えないが、ひなびた感じが私は好きだ。
かつては駅舎の東側に1面1線の貨物ホームが設置されていたが、1982年に使用廃止となり撤去されている。駅よりの1番線は上り列車専用、2番線は下り列車専用、3番線は主に下り列車が使用するが、上り方にも出発信号機があるため、上下両方の列車利用が可能な配線になっている。列車が止まると2〜3人の乗客がパラパラと行きかうだけだけだ。駅員が慌ててホームの改札口に向かった。ローカル線ゆえに、きっと駅員もここでは一人で何でもやらないといけないのだろう。
二俣駅の前の小さな「機関車公園」に大きなSLが展示されていた。「C58形389号機」だ。1歳半くらいの可愛らしい男の子のお孫さんを連れた近所のおばあちゃんが、機関車の前にお孫さんを立たせて盛んにデジカメで写真を撮っていた。多分お孫さんの両親は共稼ぎで日中はおばあちゃんが子守をしているのだろう。孫のおもりは大変ですね。
ちょうどお昼ごろに二俣城址に登ってみた。自宅から車で40分ほどの近くなのに、ここへ来たのは今回が初めてだ。平日とあって他に誰もいない。アングルを探してあちらこちらの角度から写真を撮ったり、案内板を読んだりした後、昼食にしようと吾妻屋のベンチに腰を下ろした。しばらくするとサラリーマン風の男性が作業服姿でやってきた。近くの会社からお昼休みにでも来たのだろうか。
熟年の夫婦連れもやって来て、石垣に登ったり、しばらくあちらこちらを見学している。私はカバンの中からクッキーとペットボトルのお茶を出してささやかな昼食をとった。時々さわやかな風が頬をなぜる。すぐ下を流れる天竜川の水の流れる音が聞こえてくる。名前の知らない小鳥の声がピチッ!ピチッ!と頭の上を横切った。また、もう一組の熟年夫婦がやってきた。
二俣城址で昼食をとってしばらく歩くとお寺の山門の前に出た。ここが徳川家康の嫡男信康の墓のある清龍寺だった。信康が武田氏と共謀して謀反の疑いがあると織田信長から二人の処分を迫られ、信康を二俣城で自害させ遺骨をこの寺に葬った。法名を「謄雲院殿達岩善道大禅定門」と言う。徳川家康はこの寺を訪れ清水の湧き出るのを見て、寺名を清龍寺と名付けた。ちょうどピンクの山茶花の花がきれいだった。
山門をくぐると羅漢さんが数体、草の中からこちらを見ている。まだ比較的新しいものばかりだ。羅漢は正確には阿羅漢と言う。サンスクリット語のアルハットの音訳で、直訳すると「・・・するに値する人」「受ける資格のある人」と言うような意味だそうだ。完全に悟りを開いた功徳の備わった最上の仏教修行者のことだ。お釈迦様の弟子だが、その中でも特に優れた16人の弟子たちを16羅漢と言う。
五百羅漢と言うのもある。埼玉県川越市の喜多院にある五百羅漢は有名である。必ず自分の顔にそっくりの羅漢さまがいるという。ここ清龍寺の羅漢様は16人もいなかったように思うが数えてはこなかったので分からない。作られたばかりのようで新しすぎて、まだありがたみを感じなかった。やはり仏像は古いほうが頼りになるような気がする。
少し奥に歩くと、信康の墓があった。入口は木造の格子の扉が閉まっていて中には入れない。奥の方に赤い門が見える。なかなか立派なお墓だ。ここ清龍寺には信康のほかに殉死した吉良於初、当時の二俣城主大久保忠世、三方原に討死した中根平左衛門正照、青木又四郎吉継の墓もある。
何の木だったか、清龍寺の境内の大きな木の幹に太い蔦が巻きついていて見事だったので、ついカメラのレンズを向けてしまった。何かを感じたら、「面白いな」と思ったら必ず写真を撮っておくのは、カメラ散歩の鉄則である。後で、家に帰ってから「あれを撮っておけばよかったのになあ」と悔やんでも後の祭りだ。悔しい思いは何度もしている。デジカメはフイルム代がかからないのでその点便利である。
清龍寺の入口に二俣城から移築した井戸櫓(いどやぐら)がある。元亀3年(1572年)10月、武田軍は徳川方の二俣城を攻撃したが、城兵は小勢ながら天険を利用してよく防いだ。武田軍は城兵が天竜川の崖に櫓を造り滑車に縄を掛ける釣瓶で水を汲んでいることを察知して、水の手を奪う戦法に出た。寄せては釣瓶を筏を流して切断し落城させたという。前の池で3歳くらいの男の子がおじいちゃんと一緒に水遊びをしていた。昼間はこうしたお孫さんの子守をしているおじいちゃん、おばあちゃんによく出会う。
清龍寺の山門を出てすぐ下へ降りると、昭和11年に旧二俣町役場として完成した赤レンガのしゃれた建物に出会う。本瓦葺で外壁が赤レンガのシックで落ち着いた外観が素晴らしい。その後昭和33年に初代天竜市庁舎として使われ、昭和45年に新庁舎完成後は図書館に利用された。現在は福祉関係の事務所に使われている。新浜松市になってから、故本田宗一郎の資料館として利用することが決まっているようだ。国の登録有形文化財でもある。
街中を歩いていたら良い味のお蔵の建物があった。私は歴史を感じるお蔵の建物が大好きだ。すかさずカメラに収めた。漆喰の白壁が剥げて下地が出ている感じがとてもいい。これが最近作られたばかりの新しい蔵では全く写欲がわかないものだ。人間も年をとるほどに味が出てくるものである。
平成10年4月にオープンした、旧天竜市出身の画家、秋野不矩画伯の作品を集めた美術館。天竜市街を見下ろす丘の上にあるその建物は、地元の天竜杉など天然素材をふんだんに使った、他に例を見ない異色の様式だ。漆喰の壁と藤ござの敷かれた床を持つ展示室は、秋野不矩画伯の作品を床に座って鑑賞できるように作られている。だから靴を脱いで展示室に入ることになる。設計者の藤森照信氏は、秋野不矩画伯の汚れのない絵と土足は似合わないと考え、素足になる美術館を設計したという。

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