ホウジ峠・傍示峠・北條峠のいわれ
平安時代末期から鎌倉時代(荘園時代)に旧勢力(天皇方荘園領主)と新勢力(武家方、守護、地頭)が下地(土地)争いをしたとき、その下地を折半(下地中分)するという形で紛争を解決した際、この峠に「杙」を立てたことから「傍示峠」という。地名では天皇方を「領家」とか「奥領家」といい、武家方を「地頭方」という。因みに、この地の字名は「奥領家」である。北條鎌倉時代に北條家ゆかりの者がこの地を通って信濃に逃れたという伝承があったことから、、その末裔がこの地を訪れたとき、「傍示」を「北條」に当て字して「北條峠」と呼んだといわれる。なお、明治時代には、四囲と峻険の別天地のため、赴任した官吏がこの峠に立って驚愕し辞職を申し出たことから、「辞職峠」とも伝えられている。傍示/杙(くい)または石などによって、領地、領田の境界の標示としたもの。(佐久間町観光協会城西支部)(2012・9・13)