アンドレの「デジタルつれづれ草」90段

“今は亡きロック歌手・尾崎豊のこと”


「尾崎ハウス」と部屋の中

年代が全く違う、この若者のことに関心を 寄せたのは、天声人語子の白井健策氏が7 年間に亘るコラム人生を振り返って、こん な事を言っている一つの文章が気になった からだ。

「死んだ人について書いた天声人語の中で 最も多くの手紙が読者から来たのは、間違 いなくロック歌手・尾崎豊さんの時だっ た。反響の大きさは冠絶していた。199 2年4月末日に行われた追悼式の時も、雨 の日にもかかわらず、おびただしい数の若 者達が文京区の護国寺に詰め掛けた。名前 をよく知られた有名人の葬儀でも、これほ どの人数が集まることは稀である。境内に 入りきれない哀悼の列は寺の周囲に長く続 いた。その数は5万人を越えたともいう。 彼の歌に自分の人生を重ね合わせて共感し た若者が多かったに違いない」・・・・ ・・。

尾崎豊がこれほどまでに若者に共感を与 え、愛された理由は何なのか、今の若者が 何に悩み、何を求めているのか・・・・・ どうしても知りたくなって尾崎豊に関する 本を探して読んでみた。今年も尾崎豊の命 日4月25日がやって来た。


1992年4月25日未明、ロック歌手・ 尾崎豊は、足立区千住河原町の古ぼけた民 家の庭で泥酔状態のまま上半身裸で拳を突 き出し、蹴りを入れ、格闘技の型を2時間 余りにも亘り演じ続け倒れた。この最後の 姿をこの家の主婦、小峰豊子さんは最後ま で見届けている。すぐに救急車で病院に運 ばれ手当てを受け、一時意識もしっかりし ていたことから自宅マンションに帰った が、再び病院に運ばれた時は既に遅かっ た。午後12時6分他界、享年26歳、死 因は肺水腫。長期的な覚せい剤使用による ショック死であったことが、あとで分かっ た。

尾崎豊最後のこの地は、その後多くのファ ンの「聖地」となって亡くなったその日か ら、その場所は花束などを捧げるファンが ひっきりなしに訪れ、何時間もうずくま り、何時までも泣きじゃくるファンの姿が 続いた。尾崎豊とは何のいわれもない、古 ぼけたその民家は、瓦葺の木造2階建、隅 田川をまたぐ千住大橋のすぐそばにひっそ りと佇んでいる。夫婦は、決して広いとは いえぬその家の一間を、ひっきりなしに やって来る尾崎ファンのために解放したの である。通称「尾崎ハウス」と呼ばれる。

6畳一間のその部屋には、あらゆる尾崎が 詰まっている。壁一面にファンが持ち寄っ たポスターやイラスト、油絵が並び、祭壇 のような尾崎の写真の前には、花束やウイ スキーのボトルが捧げられている。そし て、テーブルの上には、全国からここに やって来たファンが亡き尾崎への思いを 綴ったノートが置かれている。尾崎がいな くなったことへの悲しみ、尾崎の歌で励ま されたことへの感謝、自分が今抱えている 問題、哀しみ、怒り、焦り、絶望などを語 り、或いは勇気や希望を持って前へ進む決 意などを綴っている。そこには嘘も虚飾も 照れもない。この「尾崎ノート」はもう何 十冊にもなって、そのうちの一部は本にも なって紹介されている。

このノートは小峰夫妻という不思議な魅力 を持つ存在がなければ生まれなかった。自 らの部屋を開放し、ファンの面倒を見るそ の行為は、何の代償もなく、自腹を切っ て、電気、水道代を払い、時には夜中まで ファンを出迎える。尾崎ハウスに集まる ファンは、単に尾崎の最後の地という理由 だけではない。こうした小峰夫妻の人柄が あればこそである。悩みを打ち明ける子供 たちの相談に乗ることはしょっちゅうであ る。家出をした娘を探しに来た親の相談に 乗ったこともあるという。

小峰夫妻の自宅の庭は、以前尾崎豊が小学 校5年まで暮らした練馬の実家の庭の作り によく似ていたという。豊はその庭で父親 によく空手を習ったことがあった。心の中 は子供時代に帰っていたのだろう。豊が亡 くなる4ヶ月前の1991年12月29 日、母を東武東上線・朝霞駅の階段で倒れ て亡くしている。なぜかその時の電車の切 符を、母親の形見としてセカンドバックに 入れて持っていた。生前母親には相当苦労 をかけたという思いがあったに違いない。

尾崎家は典型的な核家族。父も母も郷里は 岐阜県高山市。父は郷里を飛び出して東京 で暮らし始め、自衛隊事務官の職を得て、 明治大学の夜間部に通った。母も大学資格 検定の勉強をしたほどの教育熱心な家庭で あった。別に裕福ではなかったが父も公務 員の真面目な勤務で、母も倹約家で外で働 くのが好きな明るい性格。家族4人がつつ ましく生活する普通の家庭であった。極端 な過保護でも、放任でもなく、特に厳格 だったと言うことでもない。

兄が子供の時は、家の周りはまだ沢山の畑 が残っていて、「原っぱ」で草野球やドッ ジボールをして、母親が呼びに来るまで遊 ぶことが出来た。原っぱの時代は自然発生 的に「タテの関係」と言うものがあって、 ガキ大将的な存在を中心に、高学年から低 学年までの子供が混然となって遊ぶのだ。 当然親同士も顔見知りの地縁集団である。

ところが弟の豊の時は、突然原っぱが「公 園」に変えられてしまった。広くない土地 の中央に滑り台が置かれ、ジャングルジム やブランコが置かれた。原っぱを中心とし た子供集団は崩壊し、それまでの遊びは公 園では不可能になってしまった。1960 年代、70年代は、都市、或いはその近郊 は至るところで「原っぱ」が閉鎖され、同 時にそこを根城にしていた子供集団が消え ていく時代だった。いわゆる「都市型の 子」の出現である。豊が都市型の子供に属 することは間違いない。

豊は小学校6年の時、父親の勧めで空手を 習った。埼玉県大会の少年の部「型」で優 勝している。小学校高学年の頃、体の不調 を訴え、よく不登校を起こすようになる。 この頃兄が使わずに放っていたギターを独 学で始めるようになり、メキメキ上達し た。家族の前でギターの弾き語りを見せる ようになる。よく通る声で、一曲一曲感情 を込めて真剣に歌った。子供にありがちな 「照れながら歌う」と言うことは最初から 全くなかった。その点普通の子供とは違っ ていた。

豊が中学に入ってよく問題を起こし、母親 がよく呼び出された。先生の言うことを聞 かない、口答えする、授業妨害、規則破 り、と言うのが主な内容だった。定期試験 の前は、シコシコ勉強する一面もあり、勉 強に関しては両親も熱心で、中学3年には 進学塾にも通った。そして青山学院高等部 に合格した。両親もこれで一安心と考えた に違いない。しかし、それは甘かった。豊 は高校の卒業証書すら手に入れることはな かった。

青学に母親が呼び出された回数は中学時代 に輪をかけて多かった。いずれも停学処分 だ。喫煙、酒を飲んで喧嘩、窓ガラスを拳 で割った、・・・などである。これで無期停学処 分となり、中退へとつながっていく。豊は 基本的には他人に対して丁寧な接し方をす る。意外と大人しいと思えるくらいだ。と ころが納得できないと言う気持ちが臨界点 を突破すると、プチッ!と切れるタイプ だった。

母親はよくヒステリックに怒るときがあっ た。頭のてっぺんからキンキン声でよく怒 鳴った。それに比べて父親は余り叱ること もなく、ソフトだった。これで尾崎家はバ ランスが取れていた。年頃の子供を持つあ りふれた家庭の光景であった。親子喧嘩の 怒鳴り声がしたかと思えば、笑い声も聞こ えていた。

母親の「退学するなら私を殺してから行 け」という言葉さえ無視して、自分で退学 届けを出したのは、高校3年の3学期の1 月25日だった。この時を堺に、自分の進 むべき道、テーマを手にした豊はひたすら 突っ走った。そのテーマとは、先生や親、 友人や彼女といった、豊を取り巻く人々と の「考察」がきっかけとなったに違いな い。「人と人との結びつき」や「葛藤」は なぜ生じるのか、という点を追求し、表現 しようとしたのだ。

豊が高校を中退した日に、友人宅で「中退 記念パーティー」が開かれた。その時「一 曲歌えよ」ということになり、いつもの調 子でギターを抱えて歌い始めた。しかし、 途中で泣いて声が詰まって歌えなくなって しまった。豊は決してケロッとした顔で高 校を辞めたわけではない。学校に逆らい、 親に逆らって自分の道を選んだ。しかし、 その結論に至るまでの過程には、深く、激 しい、煩悶とした葛藤の日々があったの だ。

豊は停学中の1983年秋に、CBSソ ニーのオーデションに応募し、しばらくし て合格の通知が来た。CBSソニーの斡旋 で、マザーエンタプライズという音楽事務 所に所属することになった。しかしこれは 学校を辞めることを前提とした行動ではな い。当時豊は未成年者だったから、契約書 は全て父が名を連ねた。契約書には「尾崎 豊の就学に支障がない配慮をする」という 一項が入れられた。両親は復学、大学進学 という線を捨てるつもりはなかった。

この年の12月に「17歳の地図」でレコード デビューを果たす。1月に退学届けを出し た時、母親はなお「大検を受けて大学へ行 け」といった。しかし、豊のレコードが大 きな反響を呼び、大検どころではなくなっ た。事務所から給料が支払われ、家を出て ワンルームマンションへ引っ越していっ た。その後ライブ活動が大成功を収めて いった。

1986年4月、一旦活動を中止して ニューヨークに渡る。名目は「音楽の勉強 と研修」であったが、これは音楽事務所の 作戦だったようだ。音楽事務所にとって芸 能人は商品である。全ては金の為、豊が一 番不快に思ったことだ。経緯は本人しか分 からないことだが、ニューヨークに渡って からドラッグに手を出した。日本に帰って から幻視、幻聴の症状がひどく出るに至っ て、自力更生は無理と悟った家族の通報で 警察に逮捕される。

逮捕から2ヵ月後、1988年2月、豊は 執行猶予付き判決を受け釈放された。2ヶ 月ほどで豊の精神は見違えるほど回復し た。拘禁中も歌を作っていた。その年の5 月に繁美さんと結婚、テレビ番組にも出 演、9月に東京ドームにて復活ライブを行 い5万人を動員する。1989年、長男裕 哉くんが誕生。自分の子供の誕生を感動を 持って迎え、この後出したアルバムのタイ トルは「誕生」だった。 音楽事務所に管理されるのが我慢できな かった豊は、やがて自分の事務所、「アイ ソトープ」を立ち上げる。自分が代表者、 母親が副社長で経理を担当した。

そして、1992年4月25日の前日、都 内で開かれたあるパーティに参加した。豊 が倒れるまで飲むのは別に珍しいことでは ない。尾崎家は、父も兄も豊も酒好きであ る。この日のパーティの後、何軒かハシゴ をして、相当量の酒を飲んだらしい。午前 2時頃タクシーに乗った豊は、どういう訳 か自宅マンションまで行かずに足立区の交 番前で降りた。そして午前4時頃、ある民 家の庭先に入り込んで上半身裸になって倒 れていたところを、この家の奥さんに発見 されて119番通報され、冒頭の最後の日 となっていったのであった。


夢中で書いていたら、随分長い文章になっ てしまった。・・・・・人間は生まれつい た性格もあるが、その後育った環境、接し た人間関係等の外的要因で変わるものであ る。尾崎豊の生い立ち、育った環境がアウ トラインではあるが少しは分かったが、子 供の育て方はどうあるべきか、という私の 関心事のヒントは得ても、回答を得るのは なかなか難しい問題である。(2006.4.28)

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