アンドレの「デジタルつれづれ草」78段

“携帯電話の功罪”

携帯電話

15数年ほど前、携帯電話というものが世 の中に出た時は、マスコミ関係者や会社の 社長など、ごく一部のリッチな人だけが、 肩に掛けたり車に積載していたが、結構大 きくて重いものだった。いわゆる富裕層だ けのステータスシンボルだった。その後技 術の急速な進歩で、小型の携帯電話が急に 普及し始めたのは、せいぜい5年ほど前か らである。今では中学生から我々シニアの 年代まで、おそらく携帯電話を持っていな い家庭は殆どないほどの普及振りである。 中には親が持たせているのか、小学生も 持っていたりする。正に1人1台時代であ る。

最近は防犯機能の付いた携帯電話もあるよ うだ。持っているだけで今どこのエリアに いるか分かるもの、非常事態時にボタンを 押すと予め登録された電話に通知が行くも の、防犯ブザーが鳴るものはあるかどうか 知らないが、変質者による児童の誘拐殺人 が頻繁に発生する世の中である。子供に携 帯電話を持たせるのも致し方ない時代に なってしまった。

私も3年ほど前からかみさんと二人で持っ ている。電話の本体はタダである。カメラ もちゃんと付いている。これだけ機能の優 れた機械がタダなんて、不思議な業界であ る。勿論もっと機能の高級な機種は有料で ある。そんな電話は私には必要ない。「今 日も鳴らずにまた充電」の日が多い。それ でも持っているのは、私の場合は生命保険 代わりに携帯電話を持っているからだ。初 めの頃は、つい家に置いたまま外出するこ とが多かった。電話を携帯するという習慣 がなかなか身につかなかった。この頃やっ と自然にポケットに入れるようになった。

携帯電話が普及し始めた頃は、どこにいて も電話が鳴って、四六時中管理されている みたいで、「そんなもの持つものか」、と 思ったりした。しかし、今はどこにいても 連絡が出来る、いつどこにいても緊急連絡 が受けられる便利さを実感している。変な 話だが、身内の死に目にも何度か間に合っ たりしている。携帯電話の普及で街の公衆 電話も少なくなってきたので急に連絡した い時など、携帯電話がないと不便になって きた。そう言えば、昔やたらいただいたテ レホンカードが沢山残っているが、買い 取ってくれるのだろうか。

生命保険代わりといったが、私は一人で奥 三河や南信州へ花の撮影に行くことが多い (最も最近は現役時代より忙しくて余り行 く暇が無いが)。そんな時、事故に遭った ときなど携帯電話は必需品である。最近、 中高年の山での遭難事故で、携帯電話のお 陰で助かった言う例が結構多い。命が助か るなら月々の電話料など安いものである。

さて、一方携帯電話で困った現象が起きて いるという。今までは電話は1軒に1台で あった。子供の所へ掛かってきた友達から の電話は、まずお父さんかお母さんが受け て子供に取り次いだものだ。子供の交友関 係も自然に把握できた。もし、子供が最初 に電話に出た場合は、どこからの電話か分 からないので、最低限の敬語を使うことに なる。敬語の使い方も自然に身に付くので ある。

しかし、携帯電話になってからは様子が一 変してしまった。友達からの電話は直接子 供の携帯に掛かってくる。敬語を使う必要 もない。親は子供の交友関係が全く把握で きない。家庭の中の親子のコミュニケー ションが益々希薄になっていくばかりであ る。通信手段の技術革新は便利になる一 方、人間関係に大きな課題を作ってしまっ ている。どうしたらよいのか、残念ながら 私にも答えられない。(2005.11.26)

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