アンドレの「デジタルつれづれ草」70段

“吾輩は猫である”

猫

“吾輩は猫である。名前はまだない。”・・・は、ご存知夏目漱石の処女作「吾輩は猫である」の冒頭である。上の写真は、私のテーマ別写真集「吾輩は猫である」の1カットである。鋭意取材中であるが、何分相手があっての撮影ゆえ、完成予定は未定である。気長に期待していただきたい。先日、私の写真講座を受講さたアンドレメイトの皆さんもたくさんいらっしゃるので、受講後のフォローとして、時々参考作品を披露しながら、作品作りの解説をしていきたいと思う。

写真の題材はありとあらゆるものが対象になる。時には目に見えない風や香り、暑さ、寒さの空気感も対象になる。・・・と、お話ししました。美しいものもそうでないものも、とにかく自分が気になったものを何でも撮って見る。最初は「数打ちゃ当たる」式でいいと思う。デジカメは何枚撮ってもタダである。フイルムが無駄になることはない。撮ったらパソコンへ取り込む前にテレビ画面で大写しして見てみる。意外と面白いものが撮れていたりする。たくさん撮っているうちに、自分の興味の対象が見えてくるものである。

興味が絞られたら、テーマを決めて撮ってみる。今回は「猫」をテーマにお話しよう。猫は写真のテーマによく選ばれる。その姿かたち、仕草が愛らしく、写真写りがいい。いわゆるフォトジェニックである。猫好きにとってはたまらない被写体だ。野良猫から飼い猫まで、プロもアマチュアも猫をテーマにした写真集は実に多い。インターネット上でも数多く発表されている。自宅で猫を飼っているお宅なら、是非作品 作りに挑戦してみて欲しい。今までの「ただカメラを向けてシャッターを押すだけ」から、「作品を作る」というレベルに意識を向上させて欲しい。何を感じて撮ろうとしているのか。カメラを向けると言うことは、自分の心の中で「何か」を感じたはずである。その「何か」を自問自答して欲しい。

「写真は写心である」・・・ともお話しした。「写真はシャッター以前」・・・ともお話しした。現在のカメラは、露出もピントもカメラが自動的に最適の状態に合わせてくれる。チンパンジーでもシャッターを押すだけで奇麗な写真が撮れる時代である。しかし、チンパンジーと人間の決定的な違いは「心」があるか、ないかである。チンパンジーにも心があるかもしれない。しかし、レベルははるかに人間の方が上である はずだ。自分のイメージした対象に出会ったら、何が何でもイメージを作品にしようと言う気力と努力が必要である。写真写りがいい上辺だけが奇麗な写真より、内容のある、味のある写真を撮ることを心掛け て欲しい。

写す対象を選ぶのは自分である。自分の「心」である。対象に向かって何を感じ、何を表現しようとしているか、自問自答してみて欲しい。上の写真は、前回の「つれづれ草69段」で紹介した満光寺の本堂の前である。このお寺には、庭に猫が5〜6匹ほど飼われていた。しかし猫の風情からしてもとは捨て猫だったものを、ここの住職のおかみさんが面倒を見てあげている、といった雰囲気だった。 本堂前にいたこの黒猫は、そんな自分の過去の身の上などすっかり忘れて、「ここは俺の庭だい!」といった、ふてぶてしさで、私がカメラを30センチまで近づけてもご覧の通り逃げようともしない。

このように、風景の中の点景ではなく、あくまで猫を主役に撮る場合は、広角レンズ側で、近すぎるくらい思い切って迫って撮ると、迫力ある写真が撮れる。望遠レンズ側ではこの迫力は出ない。男子トイレの貼 り紙の「一歩前え」の要領である。初心者の場合はこれほど近づいて撮るのは勇気がいるが、ピントが外れるくらい思い切って近づいて撮ってみて欲しい。この写真の場合はあえて白黒写真に画像加工して自分の イメージを表現してみた。こういうイメージの場合、カメラを猫の目線より下げて、猫を威張らせてあげないといけない(ほんとはもう少し広角で、もっとアングルを下 げたかったが)。私の作画イメージ・・・「自分の過去の身の上をすっかり忘れて我が物顔にのびのび生きる猫の姿」・・・を感じていただけるだろうか。

・・・・と、いろいろ理屈っぽい話を述べたが、勿論いい被写体に出会った場合、上記のようなイメージの展開をのんびり考えている時間はない。猫は何時までもそこにのんびりといてくれるとは限らない。反射 的に頭の中でイメージの展開を図って、夢中で猫にカメラを向けてシャッターを切っていた。・・・と言うことになる。特に動きのある被写体の場合は、瞬間のひらめきが大切である。瞬間的にイメージに合ったカメラアングル、距離、レンズの選択、背景の処理を決めなければならない。何時どんな被写体に出会っても対処できるよう、常に自分の感性を磨いて、しかもカメラ操作に慣れておくことが必要である。結論は、日頃優れた作品を鑑賞して おくこと。そしていろいろな被写体に挑戦すること。何事も数多く経験を積んで体で 覚えるしかないのである。(2005・8・13)

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