アンドレの「デジタルつれづれ草」68段

“森の水車”

水車

♪緑の森の彼方から陽気な唄が聞こえましょう あれは水車の廻る音耳を澄ましてお聞きなさい コトコトコットン、コトコトコットン ファミレドシドレミファ・・・・・・・

地元出身の歌謡作詞家:清水みのるの作品 「森の水車」は私の生まれた年の昭和17 年9月、映画女優高峰秀子の歌でレコード が発表されたが、戦時中ということもあり 余りヒットしなかった。昭和26年4月9 日より荒井恵子の歌でNHKのラジオ歌謡 で放送されると、たちまち全国ヒットと なった。故郷の小川にあった水車をイメー ジした作品で、現在浜松市伊佐地町の「森 の水車公園」には清水みのる顕彰碑と共に 水車小屋が再現されている。

清水みのるは明治36年、浜松市伊佐地町 の村医の次男に生まれた。長男は小学校2 年の時事故で半身不随となり、弟みのるは 親の期待を担うようになる。浜松一中(現 ・浜松北高)時代は、理数に秀で、文学青 年でもあった。柔道、剣道、水泳でも頭角 を現す。しかし喫煙など校則違反で停学処 分、1度退学となった。このエピソードは キセル事件として、同校の百年記念人物誌 にも載っている。体操の時間、清水みのる が鉄棒で逆上がりをすると、ポケットのキ セルが教師の目の前にぽとりと落ちた。中 学生がタバコを吸うとは何事だと、清水は 停学処分を食らった。

結局21歳で浜松一中を卒業すると、上京 して立教大学へ進学、その後新感覚派文学 運動の旗手で奇人作詞家:佐藤惣之助に師 事。そして昭和6年ポリドール蓄音機会社 (後のポリドールレコード)に入社、28 歳で作詞家の道を歩き出した。清水の評価 を高めたのは田端義夫のデビュー曲「島の 舟歌」。戦後も田端のために「別れ舟」 「かえり船」「かよい船」の三部作を送っ ている。

昭和24年には母校伊佐見小学校に校歌を 贈り、「・・・・仰げ、仰ごう伊佐見の 子、ひかり、ひかりの伊佐見の子」と母校 の子供たちをたたえている。昭和45年日 本作詞家協会功労賞、翌年に紫綬褒章を受 賞。昭和54年、76歳の生涯を閉じた。

実は私は伊佐地町に水車小屋が出来たのは 以前から知っていた。車で前を何度か通り 過ぎて窓から眺めていただけであった。私 の母校の大先輩でもあった清水みのるの、 そんな縁のある水車小屋とはつゆ知らずで あった。6月のある日曜日に行ってみた。 確かに清水みのるの碑があって、水車がコ トコト廻っていた。

公園は野の花の宝庫でもあった。ヒメジョ オン、ネジバナ、ニワゼキショウなどが咲 き乱れていた。網と虫かごを持ってトンボ やチョウを追いかけていた親子づれがい た。もっとも、公園の管理が行き届かなく て、ただ草まるけになっているだけかもし れないが、子供たちにとっては虫取りの天 国のような公園であった。野の花の大好き な私にとっても天国であった。(2005・7・16)

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