アンドレの「デジタルつれづれ草」44段

“秋の日暮は釣瓶落とし”

佐鳴湖夕景

11月7日は立冬で、暦の上ではもう冬に入 りました。日の暮れるのも随分早くなりま した。昔は「秋の日暮れは釣瓶落とし」な どと言いました。 今では釣瓶井戸は勿論、ポンプ式の井戸の ある風景も殆ど見ることがありません。 「井戸端会議」も殆ど死語になりつつある ようです。と言う事は、釣瓶が何であるか を伝えるのが難しくなっています。釣瓶と は井戸水を汲み上げる桶のこと。「秋の日 暮れは釣瓶落とし」といいますが、垂直に 早く落ちる事から、秋の日の暮れ易さを言 うようになりました。釣瓶井戸のある風景 を探しましたが、今では探すのが難しく、 絵を描こうとしても正確な姿が分かりませ ん。仕方が無いので佐鳴湖の夕暮れで表現 いたしました。

大きな災いが起きる時を意味する「大過時 (おおまがどき)」、「逢魔が時(おおま がどき)」。薄暗い黄昏(たそがれ)ど き、何かに出くわしたり、何か良くない事 が起こりそうな時刻を言います。まさに新 潟県中越地震はこの時刻に起きました。 秋の日暮れはあっ!という間です。この 「瞬間」を表現する言葉もいろいろありま す。「束の間(つかのま」は「僅かの間」 から転じた言葉。「束」とは手を握った 時、親指を除いた指4本の巾の長さで、上 代(じょうだい・・・・おおむかし。一般 的には奈良時代前後の事を指す)ではこれ によって物の長短を測ったそうです。

「瞬く間(またたくま)」は、目叩くの意 味で、まばたきの間。極めて短い時間の意 味の「刹那(せつな)」は梵語の音訳で 「念」の意味。仏教の「弾指(だんし)」 という動作は、親指の腹に人差し指を当て てはじいて音を出す事ですが、一説による と、一弾指の間に六十五刹那があるそうで す。 因みに江戸時代初期の数学書では、正確な 数字の単位を決めていて、一兆分の一、 (10のマイナス12乗)を「漠(ばく)」と して、以下それぞれの十分の一を「摸湖 (もこ)」「しゅん巡(しゅんじゅん)」 「須ゆ(しゅゆ)」「瞬息(しゅんそ く)」「弾指(だんし)」「刹那(せつ な)」「六徳(りっとく)」「空虚(くう きょ)」「清浄(せいじょう)」と言うそ うです。(一部昔の漢字が表示できないの で、ひらがなにしています)

何か最後は仏教的な難しい話になってしま いましたが、一つの言葉を調べていくと、 いろいろな言葉の展開があって、日本の言 葉の奥深さが面白く、興味深いものがあり ます。最近はこうした美しい日本語が次第 に失われつつあるのは、大変残念なことで す。(2004・11・12)

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