アンドレの「デジタルつれづれ草」37段

“童謡「みかんの花咲く丘」誕生秘話”

♪みかんの花が 咲いている
 思い出の道 丘の道
 はるかに見える 青い海
 お船が遠く かすんでる

「運命というのはわからないものです。あ の日、あの曲が出来たのは偶然でしたか ら」。作詞家の加藤省吾は「運命の日」を 振り返った。 1946年8月24日。当時、作詞活動の傍ら音 楽雑誌の記者をしていた加藤は、取材の為 作曲家の海沼実を、東京・芝の自宅に訪ね た。1時間ほどして腰を上げかけた時のこ と。「ちょっと」と、呼び止められた。 聞けば、当時海沼が設立した「音羽ゆりか ご会」のスター歌手で、当時12歳の川田正 子が、翌日静岡県の伊東市から生放送され るラジオ番組に出演するのだという。午後 一番の列車で伊東に向かわなければならな いが、その時に歌う曲がまだ出来ていな い。「ちょうど良かった。詞を書いていっ てよ」 お昼時二階に上げられ、当時貴重品だった 赤飯をご馳走になっては嫌とは言えない。 無茶とは思ったが、一回限りの放送用とい うから、伊東のみかん畑を思い浮かべて二 十分ほどで書き上げた。原稿用紙を掴んだ 海沼は、控えていた川田正子を連れて家を 飛び出して行った。

伊東までの列車の中で曲を書き上げた。初 めはなかなかいいメロディーが浮かばず、 大磯を過ぎて海が見えて来た辺りで、やっ と前奏のメロディーが浮かんだできたと言 う。「ガターン、ガターンというレールの 音が、あの八分の六拍子のヒントになった のでしょう」と海沼の娘で「音羽ゆりかご 会」の代表を務める美智子は述懐する。 今も元気で現役の童謡歌手として活躍して いる川田正子は、少女時代の、その日のこ とはよく覚えている。「伊東の旅館のお風 呂で、先生の背中を流しながら旋律を教え てくれました。翌日の放送では先生の名刺 の裏に書いた歌詞を見て必死で歌いまし た」

そんな風に偶然の出会いでたった一日で出 来た作品なのに、放送されると大反響。レ コード化されて大ヒットになり、多くの人 に愛唱されるようになった。「戦争中は童 謡も軍歌調が多かった中、あのゆったりし た温かいメロディーが新鮮に受け取られた のでしょうね」と川田は言う。 その伊東市の旅館は、その後ホテルに改装 されて、今もある「ホテル聚楽」である。 私はたまたま3年ほど前に親戚仲間で伊豆 に一泊旅行に行った時にこのホテルに泊 まって、中庭にある「みかんの花咲く丘」 の歌碑を写真に撮ってきた。(丁度逆光で 見にくいけれど)

童謡などの誕生秘話を読むと結構面白いエ ピソードがあったりして興味深い。最近は こうした日本の童謡、唱歌、わらべうたな どの歴史、誕生秘話などを研究するのも私 のライフワークの一つになっている。(2004・9・24)

※童謡歌手として、戦後長年活躍された川田正子さんは、2006年1月22日、虚血性心不全のため71歳で永眠されました。心よりご冥福をお祈りします。

「デジタルつれづれ草」トップ