アンドレの「デジタルつれづれ草」20段

“雀の子 そこのけそこのけお馬が通る”

“やせ蛙 負けるな 一茶ここにあり”
“我と来て 遊べや 親のない雀”
“やれ打つな 蝿が手をすり足をする”

我々の年代なら松尾芭蕉や与謝蕪村につづ く江戸時代の俳人、小林一茶を知らない人 はいない。 一茶の句には蝿や蚊、カエルやセミなど小 さな命を詠った句が多い。生きとし生ける ものは蚤、虱に至るまで命が惜しいのは人 間と同じだと書いている。 一茶の一生は家庭的には意外と不遇なもの であった。1763年(宝暦13年)信州 北部(長野県柏原村・・・今の信農町)の 中百姓の子として生まれるが3歳で実母と 死別する。8歳の時に継母がやってきた が、この継母とは馴染めなかったようだ。 15歳の時、江戸に奉公に出される。奉公 先を転々としながら、20歳を過ぎた頃か ら俳句の道を目指すようになる。30歳よ り関西、四国、九州を俳句修行の旅に明け 暮れる。39歳の時父親が病に倒れ故郷に 戻るが、その後継母と異母兄弟との間で相 続問題がこじれて非常に苦労したという。

その後相続問題も全て解決し、再び江戸か ら故郷へ戻ったのは51歳の時。一茶につ かの間の幸せが訪れた貴重な時期である。 一茶はこの時初めて結婚した。(28歳の 妻だった。・・・・・これだけは羨ましい か?)子どもをもうける。しかし、そんな 幸せも長くは続かなかった。 一人目の妻「きく」との間に三男一女をも うけるも、不幸にも4人とも幼くして亡く している。妻「きく」も通風が元で37歳 の短い生涯を閉じている。二人目の妻とは 性格の不一致か、2ヶ月で離縁、三人目の 妻「やを」は連れ子を持って嫁いだが、こ の「やを」との間に子どもを授かり、この 子だけが順調に成長している。しかし、一 茶はその成長はおろか、誕生さえ見ていな いのだ。

一茶が65歳の夏6月(1827年文政1 0年)、柏原村に大火が起こり、一茶の家 も被害を被り、一茶は以後、焼け残りの土 蔵に住むを余儀なくされる。その年の11 月19日、一茶は没し、遺腹の娘「やた」 が生まれたのは、翌年4月のことだった。

“これがまあ ついのすみかか 雪五尺”

そんな不遇な人生を少しも思わせないほ ど、一茶の俳句は余り構えないで飄々と 詠っている。自然に入ってくるこの飄逸さ が一茶の持ち味である。生涯約2万句を残 している。(2004・5・28)

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