アンドレのフォト・エッセイ「青春日和」No.65

“2011年3月11日(金)午後2時46分”

2011年3月11日(金)午後2時46分。それは千年に一度の日本列島の悪夢の始まりだった。私は昼食を済ませて午後1時過ぎに日課の佐鳴湖公園一周ウォーキングに行って2時半ごろ帰宅、ちょうど居間でソファーにもたれてのんびりテレビを見ながらコーヒーを飲み終わったころだった。なにかふわふわと目まいが起きた感じだった。そのうちゆっくりした大きな横揺れが始まって、天井の照明が大きく揺れていたので地震が来たことが分かった。最近にない大きな揺れだった。その瞬間「いよいよ東海地震が来たか」と思った。私はとっさに手でテレビを一生懸命抑えていた。揺れは40秒ほどで終わった。数分の後にテレビで三陸沖を震源とするマグニチュード8・8の大地震が起きたことが報道された。宮城県栗原市で震度7を記録、北海道から九州まで、日本のほぼ全域にわたって震度6から震度1を記録、遠州地方は震度3だった。日本列島全体が一斉に地震で揺れたのは、私の記憶では初めてだ。阪神大震災より大きいらしいということはテレビの報道で感じた。

その後テレビはすべての局が地震情報に切り替わり、初めはテレビ局の局室内が揺れている状況が映し出され、そのうちスーパーなどの商品が散乱している様子が映った。ここまではいつもの地震発生時のテレビの報道画面だ。その後すべてのテレビ局が、終日CMなしの地震報道のみの番組になった。地震発生直後、各地の震度とともに津波注意報が発令され、三陸海岸沿いに6メートルの津波警報が出たが、その後最大10メートルに修正された。はじめはそんな大きな津波が本当に来るのかと疑った。しかし、それが地震発生から早い所で僅か20分から1時間以内に東北地方の三陸海岸一帯の、およそ300キロに渡る海岸沿いの街という街のすべてが大津波にさらわれ壊滅状態になってしまったのだ。その後の調査で、大津波は地震発生から早い所では10分以内に到達、高さは15メートルを上回ったという。宮城県南三陸町では防災対策庁舎の3階建てのビルの屋上までのみ込まれてしっまた。津波は波と言うよりは、海面全体が底上げして襲ってくる恐ろしい現象なのだ。職員の24歳の女性は、2階でマイクに向かって町民に「6メートルの津波が来ます、避難してください」と叫び続け、津波にのみ込まれてしまった。この町の病院の5階の窓まで津波が襲っている様子も映像にあった。この町では住民1万8千人のうち、約1万人の安否の確認が取れない。石巻市のある小学校では全校児童108人の3分の2が死亡・行方不明になった。三陸海岸独特のリアス式海岸が津波の被害をより大きくしてしまった。津波が山を駆け上がった遡上高は最高37.9メートルだった。海岸から6キロの地点まで到達している。

次から次にテレビ画面に映し出される大津波の凄まじい状況は、まさにこの世の出来事とは思えない。ところどころで大きな火災も発生していた。パニック映画「日本沈没」の特撮ではないかと疑いたくなるほどだ。おびただしい数の車が、船が、家がミニチュアのように流されていく。しかし、これはまさに現実に起こった自然の驚異だ。2日後、気象庁から地震の規模はマグニチュードは8・8から世界最大級の9・0に修正された。地震のエネルギーは、M7・3だった阪神大震災の千倍だった。震源地域は長さ約450キロ、幅約200キロ、断層のずれ幅は約30メートル以上と、全てが「想定外」だった。千年に一度の超巨大地震だった。もともと三陸海岸の町は昔から幾度も津波の被害に遭ってきた歴史があり、津波に対する防災意識は高く備えは万全だった。岩手県宮古市田老では、高さ10メートル、幅2.5キロの大防波堤は「万里の長城」とも呼ばれ、昭和35年のチリ地震の大津波からも住民を守った。しかし、今回の想定外の大津波には無力だった。途中経過だが、今回の大震災で被害に遭われた人は、岩手県、宮城県、福島県をはじめ、12都道府県に亘り、死者、行方不明者合わせて2万7千人以上だ。まだ瓦礫の中や海の中に行方不明者の遺体が数えきれない規模で流されているという。建物の全半壊は5万9千戸、避難所生活を余儀なくされた住民はピーク時には46万人に達した。遺体の多くは火葬が現実的に不可能なので土葬された。

今回の地震の影響で東京電力福島第一原子力発電所は送電線が切断され外部電気の供給がストップ、更に津波で非常用発電機も故障し原子炉の冷却機能が全く失われ、核燃料の過熱が引き金となり「炉心溶融」と「爆発事故」が発生、放射性物質が外部に漏れるという、甚大な被害が発生してしまった。大地震が起こると、運転中の原子炉は「止める」「冷やす」「閉じ込める」の三段階で安定して停止するよう設計されているはずだった。今回の想定外の規模の地震、大津波発生により冷却機能を失った原子炉は次から次と様々なトラブルに見舞われた。もちろん日本での原子力発電の歴史が始まって以来の一大事であり、アメリカのスリーマイル島原発事故よりも深刻で、チェルノブイリ原発事故に次ぐレベルの大事故との見方をする海外の専門家もいる。原子力安全・保安院と東京電力の担当者が代わるがわる状況と対策を説明するが、素人にはよく分からない分野で余計に心配になる。核分裂生成物のヨウ素、セシウムが何ミリシーベルトなどと言われても、目に見えるものでもなし、どれだけの量で人体にどんな影響があるのかもよく分からない。遂に原発から半径20キロ以内は避難指示、30キロ以内は屋内退避などが出され、時間が経過するにつれ被害が拡大するなど、更に深刻な状況が続いている。1か月後に原子力安全・保安院は福島原発事故の深刻度を示すレベルを、チェルノブイリ原発事故と同じ「レベル7」に引き上げた。

東日本大震災の影響は国内の全てに影響しているが、自動車、電機などの主要製造業では、被災地の部品メーカーからの供給が滞り、組み立てラインが停止したり、計画停電が本格稼働を困難にしている。原発の放射能漏れで周辺の住民の避難を余儀なくされるだけでなく、周辺の農作物、酪農製品の収穫、販売ができなくなり、海への汚染も広がり、漁業にも深刻な影響が出ている。更に放射能汚染は風評被害が拡大し、国内だけではなく、海外からも被災地だけでなく日本製品全般の輸入禁止措置を採る国も表れる始末だ。また、津波が襲った3県の沿岸部では多数の企業が壊滅的な被害を受け、原発周辺の住民は町民全員が圏外へ避難するなど、数万人規模の労働者が実質休業状態になっている。また、新卒の内定取り消しに関する相談も多数寄せられている。大地震発生後日本各地の祭りやイベントが自粛され中止が相次いでいる。外国からの観光客が来なくなった。日本経済の全てに亘って被害は甚大だ。万一の時にコントロールする技術が確立されていない原発は、特に地震大国日本では受け入れがたい。電力に頼りきった現代社会の盲点が、今回の大震災で露呈してしまった。日本という国の将来設計を、根本的に考え直さないといけない。今回の大地震は平和ボケ日本への天からの警告なのか、それにしても余りにも厳しい警告だ。発生から長野や静岡でも震度6クラスの地震が発生、1か月経った今も震度6クラスの余震が東北地方で群発している。気がかりは、1か月経っても終息のめどが立たない福島の原発だ。

今回の東日本大震災での一つの救いは、こんな状況下でも被災地の住民はとても冷静に礼儀よく行動し避難所生活を送っていることを、海外のメディアは称賛している。これは同じ日本人として誇ってよいことだと思う。テレビで見る被災者の姿は、家を流され、家族を失っているなど壊滅的な状況の中でも、明るく前向きな姿に東北の人たちの我慢強さ、辛抱強さ、たくましさを感じる。第83回選抜高校野球で東北高校が大垣日大高と対戦し、0−7で敗れはしたが、震災で満足に練習ができなかったにもめげず、最後まで諦めず力強く戦った姿がすがすがしかった。全国から義援金が多数寄せられている。個人で100億、10億という大口もある。私もある団体を通じてだが多少の寄付をさせていただいた。海外からも多数の人的、金銭的な支援が行われている。応援のメッセージも届いている。鉄道や道路などのアクセスの復旧は、まだ一部だが驚くほど速かった。ただ、平年の16年分とも23年分ともいわれる膨大な瓦礫の撤去には相当時間が掛りそうだ。時間は相当かかるが、必ずや立ち直る日が来ることを確信している。人間の歴史は、幾度も戦争や災害に遭っては立ち直り、を繰り返してきているのだ。それにしても、必ずいつかは来るという東海地震が現実味を帯びてきた。東日本大震災は他人ごとではない。(2011・4・12)

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