アンドレのフォト・エッセイ「青春日和」No.33

“デジタルカメラとアナログカメラ”

カメラ

今やデジタルカメラ全盛時代である。デジタルカメラが一般大衆用として実用化されたのは、せいぜい10年前のことである。当時、すでに新し物好きな人はデジタルカメラを持っていた。知人のお宅に遊びに行ったとき、そのデジタルカメラで友達みんなを撮ってプリント用紙に印刷して見せてくれた。「デジタルカメラは撮って直ぐにプリントできちゃうんだよ」と、時代の最先端を歩いているのが、いかにも自慢げだった。印刷された自分の姿を見て、画像の粒子が随分荒れていたのが印象に残っている。初期のデジタルカメラはせいぜい35万画素程度だった。内心「これは使い物にならないな」と思った。私もカメラは好きだったが、デジタルカメラは買う気にはならなかった。この頃すでに営業写真館などで使っていたプロ用のデジタルカメラは、一式300万円と聞いていた。知人のデジタルカメラも相当高価だったに違いない。この頃はまだ「デジカメ」などと愛称で呼べるほどの大衆商品ではなかった。

デジタルカメラには余り関心もなく2〜3年が過ぎた頃、200万画素クラスのデジタルカメラが大型家電ショップの店頭にたくさん並び始め、瞬く間にデジタルカメラが普及し始めた。価格も「デジカメ」と愛称で呼べるほどになった。プリントされた見本写真は、今までのフイルムカメラと遜色のない綺麗な画像だ。初期の頃のギザギザの写真とは比べ物にならないほど滑らかな写真に、これなら使ってみるかという気持ちになって、ちょうど初孫の誕生を機会に、2001年にキャノンの200万画素のコンパクトデジカメを買ってしまった。撮影して直ぐにパソコンに取り込んでみんなで見たり、ワードの文章に貼り付けることができる。2L程度のプリントならフイルムカメラに勝るとも劣らない綺麗な写真が出来てビックリした。技術の進歩のスピードは凄いものだと思った。デジカメの余りにも手軽な便利さに、つい夢中になってしまった。以来、長年親しんできたフイルムカメラは、これを機会にバッタリ使わなくなってしまった。冷蔵庫に保管してあったリバーサルフイルム5本ほどが消費期限が3年も過ぎたままになっていた。もったいなかったけど全部捨ててしまった。

デジタルカメラが本格的に普及して間もなく、バタバタと各メーカーからフィルム式高級一眼レフカメラの製造中止が発表された。フイルムカメラは最近ではデジタルカメラと区別するため銀塩カメラなどと言ったりする。撮る時はフイルムをカメラにセットしないといけない。せいぜい24枚か36枚撮りで1回撮影したら終わりで使い回しができない。セットしてからうっかり裏ぶたを開けると、フイルムが感光して使えなくなってしまう。パトローネに入っているから全部がダメという訳ではないが、誰でも1度や2度の失敗経験がある。結婚式や旅行に行った時の大切な写真を失敗すると悲劇である。ある時親戚の結婚式で、フイルムの溝にちゃんと巻き取りの爪がセットされていなくて、1枚も巻き取られずに1本何も撮れていなかったという大失敗をしてしまった経験がある。プロだったら「すみません」では済まないところだった。デジカメは撮ってすぐに確認できるから、こんな失敗は絶対にない。

フイルムにもネガフイルムとリバーサルフイルムがあり、カラーフイルムとモノクロフイルムがある。また感度によってISO100 とかISO400とか、撮影条件によって変えないといけない。孫のお遊戯会の場合は室内の動きのある被写体だからISO400にしようとか、今日は三脚を立ててじっくり風景を撮るから発色のよいISO50のリバーサルにしようとか、実に選択の幅が広い。そして撮ってすぐには見られないから、撮影済のフイルムはカメラ屋に現像とプリントを依頼する。どんな風に撮れているかは出来上がって見ないと分からない。出来上がりを見て、意外と上手く撮れていたり失敗していたりで一喜一憂する。36枚全部撮り切らないともったいないので、フイルムが余ったらあとで何かを撮りきってから現像に出そうとカメラにセットしたまま何ヶ月も過ぎて、色が悪くなってしまったり、何を撮ったのかも忘れてしまったりしたものだ。デジカメは1枚でも2枚でも撮ったらパソコンに取り込めるのでこういうことは一切ない。

フイルムカメラ時代は、マクロレンズをはじめ各種交換レンズ、ストロボ、各種フイルターなどたくさんの付属品が必要だった。超接写用のべローズアタッチメントも買ったが余り活躍する機会がなかった。それに比べてデジタルカメラは簡単、便利、効率的でフイルムカメラと比較にならないくらいだ。メモリーカードを一つ買って置けば、パソコンに転送した後は空にして何回でも使い回しができる。撮った写真はDPEに出さなくてもすぐに見ることができるので失敗がない。カメラには一台で様々な撮影条件で撮影できる機能が備わっているのでフイルムカメラのような付属品は余り必要ない。マクロ機能、ホワイトバランス機能、もちろんズームレンズは標準だ。想定されるあらゆる撮影条件下に失敗なく撮れるようにいろいろなモードが付いている。風景、ポートレート、スポーツは序ノ口、パーティ、海・雪、夕焼け、トワイライト、夜景、夜景ポートレート、クローズアップ、ミュージアム、打ち上げ花火、モノクロコピー、逆光、水中、パノラマ。おまけにほとんどのデジカメには動画モードまで付いていて至れり尽くせりだ。ユーザーは、どんな条件下でもただシャッターを押すだけで失敗のない綺麗な写真が出来上がるというわけだ。

デジカメはカメラというより電化製品だ。電池が切れると何の役にも立たない。ほとんどの人が大型家電ショップで買う。カメラ屋さんには申し訳ないが、昔は毎日のように入り浸っていたのに、今ではほとんど用事がなくなってしまった。「デジカメは電化製品だなあ」とつくづく思ったのは、ある時連続して300回ほどシャッターを切り続けた時だ。突然シャッターが切れなくなってしまった。カメラに触ったら、ボディーが火傷するほど熱くなっていた。しばらく休んでカメラを冷ましたら、またシャッターが動くようになった。これは電化製品だからというより、ICが熱に弱いということだと思う。デジカメに限らず、最近の電化製品のほとんどはICが組み込まれていて、故障すると基盤をそっくり取り換える。まるで臓器移植と同じだ。場合によると修理と称してそっくり新品と交換されてきたりする。故障の程度により修理するより新品を買い替えたほうがコストが安くなる。

デジカメのメーカー同志の開発競争とそのスピードはすざましい。新製品が発売されて半年もすれば次の新製品が発売されて旧型と呼ばれるようになり、値段も半額になる。200万画素は300万画素になり、500万画素、600万画素はもう古く、瞬く間にコンパクトデジカメも800万画素、1000万画素が当たり前になって、もう画素数競争も頭打ちの感がある。はっきり言ってほんとはそんなに画素数が大きいと使いづらくて、素人は300万画素クラスが一番使いやすい。一般ユーザーがA4以上の大きさにプリントする機会はそんなにはないと思う。知識のない人は目一杯800万、1000万画素で写真を撮って、そのままメールで送ってきたりする。パソコンのハードディスクの容量不足やメモリ不足でフリーズしたりして、訳が分からずパソコンショップに修理を依頼したら、修理代が5万も掛かった揚句にデータがすべて消えてしまった、という話を聞いたりする。一般ユーザーが使いもしない機能が満載で多機能過ぎる。無意味な過当競争は止めて、カメラとしてのもっと本質的な開発に力を入れてらいたいものである。

デジタルカメラしか知らない最近の若者は、むしろ銀塩カメラに興味を持ったりするらしい。彼らに銀塩カメラのどこが面白いか聞いてみると、「失敗するのが面白い」と答えるという。失敗があるから成功した時の感激がひとしおなのだ。デジカメはシャッターを押せば誰でも失敗なく簡単に撮れてしまう。そこにはなんの感動も生まれない。写真についての基礎知識がなくても写真を楽しむことができる。最近の世の中は何でも自動化されて、自分で考えて工夫して失敗を重ねて成長するという楽しみがなくなった。しかし、道具はデジタル化しても人間の本質は所詮アナログなのだ。失敗を経験しないで成長するというのは決して幸せなことではないと思う。近い将来、意外と銀塩カメラが復活するかもしれない。人間は最後には本物に憧れる。

昔デジタル時計が流行したが、いつの間にかアナログ時計が主流になっている。高級時計といえば今でもアナログ時計だ。カメラだって、記録はデジカメで、ちゃんとした作品作りはやはりフイルムカメラ、銀塩カメラに限る、という2極の時代が来るような気がする。フイルムカメラには、ライカのように町の修理屋さんが修理して何十年も使い続けるようなクラシックカメラという尊敬に値するカメラ愛好家が存在するが、果たしてデジタルカメラに将来クラシックデジカメの愛好家が育つだろうか。デジカメはあくまで使い捨てで、クラシックカメラにはなり得ないような気がする。我が家にもアナログ一眼レフカメラが3台、居間の棚の中で冬眠中である。手に持った感触は、今のプラスティックでできたデジカメとは比べものにならないほどの高級感がある。きっといつかまた自分の出番が来ると信じて、時々空シャッターを切って待っている。(2008・6・7)

「青春日和」トップ