アンドレのフォト・エッセイ「青春日和」No.30

“花眼(かがん)の季節”

タンポポ

年老いてあらゆる能力が落ちてゆくなか、唯一上がる能力、それが「花眼」だ。花を奇麗だなと思う能力(気持ち)のことだ。中国では「老眼」のことを「花眼(ホアンエン)」と言うそうだ。何と美しい言葉なのだろう。「人が老いて、すべてがほんのり美しく見え始める眼」。そう言えば、私も若い時にはそれほどは感じていなかったのに、還暦が近づいた頃から道端のなんでもない雑草の花が美しいと思えるようになった。遠近両用メガネなどを掛け始めた頃からだ。いよいよ私にも「花眼の季節」がやってきた。花の美しさが見える年頃になってきたのだ。

3月も彼岸が過ぎると野の花が少しずつ咲き始める。いつもウォーキングで歩く佐鳴湖公園では、冬の渡り鳥が少なくなる頃、木々は一斉に若芽を出し、散歩の市民で毎日踏まれているタンポポが野原一面に黄色い美しい花を咲かせ始めた。しかし、いったい誰のために、何のためにこんなにも美しい花を咲かせるのだろうか。われわれ人間は事を成し遂げる時「花を咲かせる」と言う。雑草にとっても花を咲かせることはとても大切なことだ。雑草の生きる環境は苛酷である。タンポポのように毎日踏まれたり、スミレのようにコンクリートの割れ目で花を咲かせなければならないこともある。栄養分が足りない時、環境に恵まれない時、雑草は小さな花をやっと一つか二つしか咲かせられない時がある。そんな一つ二つの小さな花でもまず咲かせることを大切にしている。小さな花をつければ僅かでも種子を残すことができる。やがて種子は芽を出し、再び花を咲かせて、そうした苛酷な環境下でも命をつないでいるのである。肥料も水もたっぷり与えられて、1年中春の陽気のような温室で、何不自由なく咲いている花屋の園芸植物とはえらい違いだ。

どうせなら大輪の花を咲かせたい。そんな思いは雑草だって同じだろう。花が大きいほうが昆虫に発見されやすいし受粉の機会が増えるからだ。大輪の花を咲かせるのは並大抵ではない。しかし小さな花を咲かせるのはそんなに難しくない。雑草の戦略は巧妙だ。この仕組みを最も巧みに利用している花の一つがタンポポの花だ。タンポポは一つの花のように見えるがそうではない。実はごく小さな花がたくさん集まって一つの大きな花に見せているのだ。幾枚の花弁に見えるそれぞれが一つの花なのだ。よく見ると一つ一つがちゃんと花びらと雄しべ雌しべを持っている。この小さな花が100か200くらい集まって一つのタンポポの花になっているのだ。子供のままごとで使われる赤まんまと呼ばれるイヌタデのピンクの穂や四葉のクローバーでお馴染みのシロツメクサ、秋になると河原一面に黄金色に染めるセイタカアワダチソウの花も、よく見ると小さな花が無数に集まって一つの花のようになっている。

人間は「一花咲かせる」ことができれば大したものだが、雑草にとっては花は手段に過ぎず、あくまで「実を結ぶ」のが最終の目的だ。そのためには、雑草はひと工夫もふた工夫もしているのだ。道端の雑草の花に、ふと!目が止まることがある。こんなところにも雑草は花を咲かせているのかと、小さな発見に勇気づけられ、少しだけ幸せな気分になる。そんな時はついしゃがみ込んで、その小さな花を見つめてしまう。どんな小さな花でも引き付けられる美しさを持っていることを発見する。言うまでもないが、道端の雑草の花は私に見てもらいたくて咲いているわけではない。私を幸せにしようとしてあんなに美しいわけではない。その相手はあくまで花粉を運んでくれる昆虫なのだ。同じような花はいくらでも咲いている。その中でどうやって昆虫を呼び寄せるかが肝心なのだ。ある花は花の色を鮮やかに、ある花はいい香りで誘ったり、甘い蜜をたっぷり用意して誘惑したりする。

雑草は誰も助けてくれない。暑い日も寒い日も、踏まれても千切られても、たくましく立ち上がって花を咲かせ、ただひたすら種子を実らせて子孫を残す目的のために頑張っている。そんなたくましい雑草の生き方は、よく人間の生き方になぞらえる。自分のことは自分でやる。その生き方は自分次第、限りなく自由でもある。私も自由な身になってから久しいが、「一花咲かせる」・・・などと言う大それた野望はない。ただ、人生の最後に・・・「好い人生だった!」・・・と言えるように努力するだけだ。(2008・4・3)

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