アンドレのフォト・エッセイ「青春日和」No.22

“美食・飽食は果して幸せか!?”

デパ地下

食欲の秋たけなわである。最近は都会ではデパ地下が大人気である。見るからに高級な総菜がずらりと並んで食欲をそそる。結構売れているのだそうだ。閉店間近かに行くと、売れ残りが半額になるのが庶民の狙い目である。大手スーパーも総菜コーナーには可なり力を入れている。食事は毎日のことなので売上に占める割合が大きいからだ。すべて調理済みなので電子レンジで「チン!」すれば食事の支度は終わりである。お金さえ出せばご飯もおかずもチン!するだけで、まな板も包丁もガスレンジもいらない。自分で作るよりもはるかにバラエティに富んだ美味しい料理が楽しめる。1人や2人家族なら材料を買って自分で調理するよりもむしろ経済的で時間の節約になるし、自宅では作れないような洒落た料理が楽しめる。便利な世の中になったものだ。

ファーストフードやファミレスが若者や若い家族で賑わっている。何でこんな時間に食べるのかと思うような時間にもお客はいる。回転ずしも相変わらず結構人気のようだ。自慢じゃないが私はまだ一度も回転寿司の店に入ったことがない。とても落ち着いて食事ができるとは思えない。持ち帰リ寿司店や回転寿司の出現のおかげでご馳走の中でも最上位のご馳走だった寿司が、今では子供連れでいつでもお腹いっぱい食べられる大衆料理になった。若いお母さんは自宅でちゃんと料理を作っているのだろうか。核家族化で母親に料理の手ほどきをしっかり受ける機会も余りないまま結婚して、一応家庭では主婦というか、料理当番になる。やがてそういう母親から生まれ育った子供がまた結婚していく。かつての「おふくろの味」はやがて死語になる運命にある。

私が子供のころは終戦直後で食糧が相当不足していて大変だったらしい。らしいというのは、家が食品関係の商売をしていたからかもしれないが、私にはひもじかった記憶が全くないからだ。確かご飯には半分麦が入っていたが、今なら健康食としてわざわざ食べる栄養食材である。時々今でいうスキヤキらしき鍋ものも出た。肉は豚か鶏のバラ肉である。牛肉なんか当時はほとんど食べた記憶がない。肉と言えるほどほどではない小さな肉片は量が少ないので、少し食べ進むと箸で探さないと食べられないほどだ。野菜の間にやっと一、二切れ肉片を見つけて食べた時の満足感は今では得られない感覚である。ご飯に汁をかけると豚肉のダシが浸み込んでいて結構美味しかった。

昔は農家でなくてもニワトリを飼っている家が多かった。卵を産んでくれるからだ。卵を産まなくなったニワトリは特別の日に父が絞めてトリ肉のご馳走になる。内臓の中に卵になりかけのオレンジ色の小さな卵がたくさんあって、これが子供にとって結構楽しみだった。こんな時は思う存分肉を食べることができて大満足だった。 ご馳走は、正月やお祭り、冠婚葬祭など、特別の日にしか口にできなかった。特別な日しか食べられないから「ご馳走」である。しかし現代の日本人は昔のご馳走以上の料理を毎日食べている。ご馳走はたまに食べるから生きていて良かったと感動するのだ。毎日ご馳走を食べていると感動がなくなる。毎日フランス料理のフルコースを食べたら3日で飽きてしまう。フランス人は日本のレストランで食べるようなフランス料理を毎日食べているわけではない。

むかし帝王病というのがあって王様や王侯貴族がかかる病気で庶民がかかりたくてもかかれない病気があった。体が大きくでっぷり肥って、50歳前後でポックリ突然死亡する。原因は美食を続けることによるタンパク質の過剰摂取による糖尿、痛風、脳血管障害、心臓血管障害などだ。いつのまにか名前も成人病となり一般庶民が同じような病気にかかるようになった。今では成人病は悪い生活習慣により引き起こされる病気であることから、さらに生活習慣病と名前が代わって、成人だけではなく小学生などの子供まで同じ病気にかかるようになった。美食、飽食が日常化してきたのが原因だ。

いつから日本はこんな飽食の社会になってしまったのだろう。毎日ご馳走ばかり食べていると、たまに食べるお茶付けご飯や卵かけご飯にお新香だけのシンプルな食事が新鮮な感じで美味しいと感じる時がある。「♪もういくつ寝るとお正月・・・・」と、お正月が待ち遠しかった時代が懐かしい。今では正月のほうがむしろ質素な食事になっている。我が家も雑煮などは美味しくて好きなので普段の日に結構食べている。盆も正月もなく、毎日ご馳走ばかり食べて食事に対する感動がなくなって、挙句に糖尿病や肥満になる心配をしている現代人は、はたして幸せなのかと、ふと考えずにはいられない。(2007・11・23 )

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