アンドレのフォト・エッセイ「青春日和」No.14

“曲がったことは嫌いです!”

きゅうり
今朝我が家の菜園で採れたばかりのキュウリ、ナス、トマト。見てくれは悪いです。

むかしキュウリは「きゅうり」ではなく、「きうり」だった。漢字で書くと「黄瓜」である。「きうり」も発音がしにくいので、いつの間にか自然に「きゅうり」になったと考えられる。緑色のみずみずしいキュウリが黄色でもないのに何で「黄瓜」なんだろうと不思議に思う人もいるかもしれない。家庭菜園で葉っぱの陰で採り忘れていたキュウリが丸々と太って黄色くなってしまうことがよくあります。ウリの化け物のようになって種が熟してしまって、とても食べられません。しかしこれがキュウリの完熟した本来の姿です。いつも我々が食べているキュウリは、まだ実が熟さない前の未熟なうちに食べているのです。昔は完熟したキュウリを食べていたのでしょう。そのうちメロンの仲間のマクワウリやシロウリなどキュウリよりも美味しいウリが登場してきた。それならと未熟なキュウリを食べてみたらみずみずしくて意外と美味しかった。というのが現在のキュウリの始まりである。

朝採りしたキュウリを薄く輪切りにして、軽く塩もみするだけで夏の食欲が増します。漬物、かっぱ巻き、そのまま味噌をつけて食べたり、キュウリはいかにも素朴な庶民の野菜です。素人でも意外と簡単に栽培できるので、トマトやナスと並んで家庭菜園の一番の人気者です。ご多分に漏れず我が家も夏になると毎年たくさんキュウリが成ります。多い時には一日に5〜6本も採れることがあります。こうなると家族二人だけでは食べきれず、毎日朝昼晩キュウリ攻めに遭います。塩もみ、浅漬け、サラダ、冷やし中華の具、まるでキリギリスになった気分です。野菜は体に良いとはいっても、たまには肉が食べたくなりますね。今朝もキュウリが2本、ナスが6本、ミニトマトがたくさん採れました。鳥につつかれたり、ナメクジに食べられたり、曲がっていたりで見てくれは悪いが、無農薬だから新鮮で美味しいのです。

江戸時代の武士は恐れ多くてキュウリは口にしなかったとか。キュウリの切り口が徳川家の葵の御紋に似ていたからです。「この紋所が目に入らぬか」・・・水戸黄門は曲がったことは大嫌いだったが、キュウリは時々曲がってしまう。曲がったキュウリは見てくれが悪いだけで味は何も変わらない。しかし、箱詰めにもしづらいことから曲がったキュウリは敬遠される。キュウリの先に重りをつけたり、筒の中でキュウリを太らせたり、ただ見てくれを良くするために、農家は涙ぐましい努力を強いられる。収穫されたキュウリは太さや曲がりの程度に応じて階級が決められる。例え味に差がなくても小さなキュウリや曲がったキュウリは等級外として切り捨てられる。見てくれで選んでしまう消費者も反省しないといけない。

キュウリの選別が始まったころから人間も偏差値や学歴といった単一評価で選別されるようになったような気がする。曲がったキュウリを作らないようにと、重りをつけ、型にはめて育ててはいないだろうか。子供たちはみんな背がすらりとして勉強もできて、見てくれはとても良くなったが個性がなくなったような気がする。最近では曲がったキュウリや昔のキュウリの味を懐かしむ声もあって、行き過ぎた野菜の生産近代化を見直そうとする動きも出ている。逆に今度は「曲がったキュウリ」のほうが味が良いというような風潮さえ出る始末だ。これもキュウリにとっては迷惑な話だ。キュウリだって本当はできることなら真っすぐに伸びたいと頑張っているのだ。真っすぐなキュウリも曲がったキュウリも、もう少しそれぞれの個性を素直に認めようではありませんか。・・・「ああ!また今日も朝からキュウリ攻めだった」(2007・7・28)

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