アンドレのフォト・エッセイ「青春日和」No.13

“平成の桃源郷「多彼(たかれ)山荘」”

昔、中国は晋の武陵のある漁師が魚を獲りに谷川を船で漕いで行くうちに、突然一面に桃の花の咲き誇っている村にたどり着いた。立派な家々が立ち並び、美しい田畑、池、桑や竹の林、鶏や犬の声が聞こえました。村の人々はみんなニコニコと楽しげに畑仕事をしていました。その中のある家で大変ご馳走になって、こんな話を聞きました。「私どもの先祖が秦の時代に戦乱を避けるために、妻子や村人を引き連れて、この人里離れた山奥に来て、もはや決してここを出ず、そのまま下界の人々と縁が切れてしまったのです。」とのことです。帰り際に村の人は「下界の人に話すほどのことではありませぬよ」と告げられました。決して下界の人には話さないでほしいと言うことを婉曲に言ったものです。余りに感激した漁師は帰り道、要所要所に目印をつけて、やっと自分の町にたどり着きました。町の偉い人たちにこの話をすると、是非その秘境に行ってみようということになり、前に付けた目印を辿って行ったが、遂に迷ってたどり着くことができなかった。・・・・・そんな中国の逸話から、この世に実在しない理想郷(ユートピア)のことを「桃源郷」と呼ぶようになった。

こんな夢のようなユートピア「桃源郷」が浜松市中から車でわずか1時間余りの引佐町の山間にあるといったら俄かに信じがたい。しかし、友人がある知人の紹介で初めて訪ねて感激した話を聞いたら、まさに桃源郷のようなところらしい。名前を「多彼山荘」という。それなら皆で一度行って見ようか、と言う話になった。6月23日、いつもの毎日が日曜日になった男ばかりの友人10人を募って浜松駅の送迎レーンに9時45分に集合、乗用車2台に分乗して国道257号線を北に向かった。やがて伊平を東に折れると目指す「多彼山荘」のある引佐町川名方面である。途中三ケ日の友人2人の車と合流した。ここまで来るとさすがに山の中、民家もまばらである。しばらく行って右に曲がった。何も標識も看板もないので初めて来た人は、まずこの曲がり角が分からない。左に黄色い民家が見えるのが唯一の目印だ。ここまでは路線バスも時々来るらしい。

バスの通る道を右に曲がったら、車が1台やっと通れる山道が続く。ところどころ道が分かれていて、さらに迷う。案内役の友人は一度来ているのでここまでは順調に来た。やがて道が3つに分かれている所にやって来た。先頭の案内役の車が止まってK氏が降りてきた。「どっちの道だったかなあ?」まったく標識も案内もない三本の分かれ道の前でしばらく迷った。後ろの車の運転手のO氏が「確か真ん中の道だったよ!」と言った。その言葉を信じて真ん中の登り道を進んでいった。道はさらに狭くなり、対向車が来たらすれ違うこともバックをすることも難しい。しばらく進んで「ああ!見えてきた。あの建物だよ。」見覚えのある目的地に無事着いて一安心した。

予約をしてあったので、すでに多彼山荘の住人が料理の準備をしてくれていた。時間がまだ早かったので付近を歩いてみた。車は結構何台も駐車できるスペースがあった。周りは緑豊かな山に覆われて、南側の棚田には若い稲の苗が整然と並んでいた。タラの木が小屋の周り一面に生えていた。柔らかそうなタラの芽がいっぱい出ていた。立派な樫の木がいたるところに林立していた。この樫の木を切ってシイタケが栽培されていた。大きな栗の木が何本かあって、秋にはたくさんの山栗が採れるそうだ。小屋の北側に池がある。池の畔にクマガイソウの群生地があると言うので見に行った。今は残念ながら花は咲いていなかったが一面クマガイソウが群生していた。山野草マニアなら涎が出そうな花だが、全国的に乱獲されて、今では絶滅危惧種にあげられている貴重な植物である。例年4月29日に花が満開になるそうだ。

そもそも多彼山荘は、20年ほど前、ここのご主人M氏を中心とした趣味の無線仲間がクラブを設立、15年ほど前から山小屋をコツコツと素人ばかりで作り始めた。時々小屋に集まって飲んだりするようになった。料理の得意な人、電気の専門家、漁師、大工の棟梁など志を同じくする仲間が集まってきた。やがて、自分たちだけで楽しむののはもったいないと、予約を取って一般のお客に手作りの料理を味わってもらうようになったと言う。M氏が親から受け継いだ広大な山や田畑を活用して、定年を機会に始めた究極のアウトドアライフである。もともとこの地域を「田涸(たかれ)地区」(聞きかじった話で正確性には自信なし)と言うそうだが、それをもじって「多彼(たかれ)山荘」と名づけた。・・・つまり男が多い「男性天国」と言う意味らしい。しかし、今では奥さんも手伝っている。

そろそろ料理の準備ができた時間を見計らって山小屋に戻った。すぐにテーブルの上に料理が並んだ。プロの料理屋ではないので料理も盛り付けもいたって素朴である。ビールと焼酎で乾杯して宴会が始まった。浜名湖で捕れたという鉢巻をした赤いタコの姿煮も出てきた。やがて山小屋のご主人M氏が蕎麦の実と石臼を持ってきた。ご主人は蕎麦打ち名人である。「蕎麦粉を自分で挽かないと蕎麦が食べられないよ」と言われてしまった。蕎麦は新鮮さが命である。挽き立て打ちたてゆでたてをいただくのだ。初めて石臼を挽いたが結構力のいる仕事だ。蕎麦を早く食べたいばかりに皆で交代で挽いた。この山小屋では何でも自給自足である。米も蕎麦も野菜もタラの芽もシイタケも全て栽培している。猪の焼肉が出てきたが、山に仕掛けた檻に掛かった3歳ぐらいの猪だそうだ。癖がなく結構おいしかった。外では五平餅を焼いていた。窓から香ばしい香りがしてきた。焼きたての五平餅が食卓に並んだ。五平餅もすぐに平らげてしまった。

やがて打ちたてゆでたの蕎麦が出てきた。「あれ?まだ蕎麦粉が石臼で挽き終わっていないよ」と思ったら、とても素人が挽き終わるのを待っていたら、いつまでたっても蕎麦が食べられないからと、ご主人が予め用意してくれてあった。時間が経つと味が落ちるからと言われ、蕎麦もすぐに平らげた。「ほんとに挽きたて打ちたてゆでたての蕎麦を出そうと思ったら、時間と労力が掛かりすぎて、とても商売にはならないよ」とご主人が言った。今日体験してみるとよく理解できる。そんなことで男性ばかり10人で、材料も調理も全て多彼山荘の手作りの素朴な 料理をいただいて、大いに満足して帰ってきた。まさに平成の桃源郷のようなところだった。帰り際に「下界の人には今日のことはしゃべらないように」とは言われなかったので、エッセイに書かせていただいた。しかし、再び一人で訪ねたら、きっと迷ってたどり着くことができないかも知れません。 (2007・7・7)

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