アンドレのフォト・エッセイ「青春日和」No.5

“法橋(ほうきょう)の松”

法橋の松

JR天竜川駅から北へ200メートル、歩いて5分ほどの所に、「法橋の松」と呼ばれる、県の天然記念物に指定された樹齢700年と言われる幹廻り5メートルほどのクロマツの古木がある。天竜川駅からは大きなマンションの真裏になるので見えないが、自転車がやっと通れる狭い路地を50メールほど入った住宅の間の狭い敷地の中にあった。この松の古木の存在を知ったのは、2月21日付け中日新聞夕刊の「紙つぶて」と言うコラムを読んだからだ。塚本こなみさんは、日本の女性樹木医第一号として、つとに有名な方で既にご存知の方も多いと思います。今年1月から中日新聞の夕刊にコラムを連載しています。彼女はこのコラムの中でこんな事を話していました。

<・・・この木を見たときの第一印象は「安楽死させてやりたい」という一言でした。太く大きな幹の6,7割は腐り、その腐朽部には以前の治療で使われたコンクリートモルタルが充填されていました。その後も腐朽は進み、もう「座りたい」と言っているようで、痛々しさを感じさせる姿でした。先輩の樹木医や大学の先生方にも診断していただき、「あと10年の命でしょう」との意見をいただきました。松を守る関係者からは「自分の代で枯らすわけにはいけない」との要請であった。それでもと思い、樹勢回復剤を周辺土壌にたっぷり与えました。翌年春、新しい梢はとても元気よく伸びました。その姿を見て、「この松はまだ生きる力がある。生きたいんだ。安楽死させてやりたいなんて、何と申し訳ない事を思ったのか」と、松に詫びました。生あるものは最後まで諦めてはいけない。投げ出してはいけないと教えられたのです・・・。>

塚本こなみさんが治療してから15年が経った今も、この松の古木は姿こそ痛々しいが青々とした枝を広げていました。確かに太い幹の大半はコンクリートモルタルが詰められた跡が、そして台風の時だろうか、太い枝がポッキリと折れた傷が、太い枝には倒れないように鉄製の頑丈なつっかえ棒が松葉杖のように添えてあった。そんな痛々しい姿でも、まだ身をよじり天に昇る竜の様な姿にも見えるほどの迫力と貫禄がある。「法橋の松」は妙恩寺を建立した金原法橋の屋敷の前庭にあったものである。樹勢旺盛な往時の頃はツルが羽を広げたような美しい姿だったという。戦前は松の周囲は家も2,3軒しかなく、汽車から松がよく見えたと言う。その後松の周辺は住宅や工場が立ち並び、大きなマンションも出現して景色は一変した。家が立て込んで風通しが悪くなり、根も水を十分に取れなくなったのが原因のようだ。

長光山・妙恩寺は法橋の松の東200メートルほどのところにあるが、元々は一帯がお寺の敷地だったようだ。鎌倉時代第95代花園天皇の応長元年6月(1311年)、日蓮大聖人の孫弟子日像上人菩薩を御開山とし金原法橋が建立した。第11代日豪上人は徳川家康と親交を持ち、囲碁の友だったと言われている。武田軍に敗れた家康が妙恩寺に逃げ込み、日豪上人は、仏門には敵も味方もないと言って、家康を本堂の天井裏に隠し難を救ったと言われる。また、この寺は私財を投じて天竜川の治山治水に一生を捧げた金原明善翁と、テレビの生みの親である高柳健次郎翁の菩提寺でもある。現在の山沢観正住職は第54代で、なかなか歴史のあるお寺である。

今でもこの松の巨木の存在感はたっぷりで訪れる人が多いと言う。根元に祭られた小さな祠(ほこら)にお参りする人、写真撮影に訪れる人、松にあやかり長寿を祈る人もいると言う。樹齢700年と言うこの松の古木を人間の年齢には例えようもないが、「いつまでも生きることを諦めてはいけない。私だってこんなに頑張っているんだから」と言っているような気がした。私もそれなりに人生を重ねてきたからなのか、最近巨樹・巨木が大好きなテーマのなったので、こんな見事な巨樹・巨木に会うと嬉しい気持ちになるのである。(2007・3・17)

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