アンドレのフォト・エッセイ「令和つれづれ草」No.94

「芸術の秋」

芸術の秋

春の桜、初夏の新緑もいいが秋の紅葉も大好きだ。庭の柿の樹の葉は秋一番に紅葉して見事な錦色の模様を描いてくれる。毎年柿の葉の紅葉の模様を見ると「芸術だなあー!」と感動する。赤に黄色や緑と1枚1枚違う模様と色に、自分で描けと言われてもこんな芸術作品は描けない。

絵を描いてみようと水彩絵の具と筆とスケッチブックを揃えて、いつでも描ける状態にしてあるのに、なかなか実践が伴わない。つい写真を撮ってごまかしてしまう自分は、つくづく「絵の才能がないな」と思う。

自分の思いを紙の上で表現する方法に、絵と写真と文字がある。絵の才能がない私はつい写真と作文に走ってしまう。でも、写真も作文も才能はないけど、ただ「好き」という気持ちで長年続けているうちに何とか恥をかかない程度にできるようになった。絵も「好き」という気持ちはあるのに、何で描けないのだろうか。

よく旅先などで僅かな時間にスケッチブックに鉛筆でスラスラとスケッチして、水彩絵の具でサラサラと色づけしてしまう・・・そんな人を見かけると尊敬してしまう。「私もあんな絵を描いてみたいな」・・・といつも思うだけで実践できない自分が情けない。私は油絵よりも、「描き過ぎない、塗り過ぎない」・・・そんな淡白な水彩画が好きだ。素人が描く絵は上手いとか下手とかは関係ない。「美しいと思ったものを素直に描く」・・・いつかそんな絵を描きたいという思いだけはある。

ある画家の日常生活について読んだことがある。鉛筆のデッサンは毎日欠かさずやっているという。日常の身の回りのものを、とにかく毎日デッサンするという。台所にあるコーヒーカップ、みかん、レンコンの切れ端、つまり手あたり次第に何でもだ。外に出るときもスケッチブックとエンピツは常に持って、電車に乗ったら前に座っている人を何気なくデッサンしたりする・・・そんな日常の努力があるから旅先でスラスラとスケッチができるのだ。ただ「好き」だけでは絵は描けない、音楽でもスポーツでも絵画でも何でも、結局は毎日の積み重ねなのだ。私の努力が足りないことが分かった。(2022.11.20)

「令和つれづれ草」トップ