長楽寺の馬頭観音と釈迦如来

長楽寺山門平安時代初期の大同年間に弘法大師によって開かれたといわれ、この寺の北に陽光を受けて光る巨岩を霊地と見立て、お堂を建てたことに始まる。のちの今川、徳川の信仰を集め、巨岩のふもとに七堂伽藍が立ち並び寺領25ヘクタールを持って繁栄した。雑木林を開いて実を採るために植えた梅が毎年春になると紅白の花を付け、あたりに芳香を漂わせる。今は長楽寺はこの時期が一年中で一番賑やかになる。小堀遠州作といわれる回遊式の庭は、裏山の中腹の光岩(巨岩)を借景に、約2千平方メートルの斜面に200余株のドウダンが植え込まれ、四季折々にその表情を変える。特に赤く染まった紅葉の頃のドウダンは見事である。また、築山からは客殿の屋根越しに遠く浜名湖を望むことができ、客殿前の池は浜名湖の風景を凝縮したものである。

梵鐘隠元禅師の高弟、独湛禅師の筆とされる山門の「長楽寺」の額と山門や土塀は古く室町時代の作である。確かに、山門はいかにも古い感じで貫禄がある。また、鐘楼に掛かっている高さ60センチほどの梵鐘はそれほど大きくはないが、やはり鎌倉時代の作といわれ、嘉元三年(1305年)四月十日の銘があり、静岡県下最古である。ちなみに4月10日は私の誕生日と同じなので何か親しみを感じた。鐘楼の隣の小さな護摩堂に鎌倉時代の作といわれるこの寺のご本尊である木造の馬頭観音が祀られている。もともとは今のお堂の北の山上に本堂があったが朽ちて、今の護摩堂に安置されるようになったという。

馬頭観音馬頭観音は仏教における信仰対象の菩薩の一つ。サンスクリットではハヤグリーヴァ、「馬の頭を持つもの」という意味である。観音菩薩の変化身の一つで、六観音の一つに数えられている。日本名では「馬頭観音菩薩」「馬頭観世音菩薩」「馬頭明王」などさまざまな呼び名がある。衆生の無知、煩悩を排除し、諸悪を撃破する菩薩である。他の観音が女性的で穏やかな表情をしているのに対し、頭が三つ、顔はカッと見開いた目が、これも三つ、口に牙を生やし、頭上に馬頭をいただいている。み仏の深い慈愛のまなざしも大悪に大しては一歩も退かず立ち向かう強さを内に秘めた優しさなのでしょう。また「馬頭」という名称ゆえか、あらゆる畜生類を救う観音であるとも言われ、近世以降は、馬が急死した路傍などに馬頭観音像を建てることが多くなった。この場合は像ではなく単なる石碑だったりする。

釈迦如来ところで、もう一つ今日会いたいと思っていた釈迦如来像が見当たらない。受付の住職に聞いてみた。訪問した日は平日とあって、訪問者はこの時間私一人だったので快く案内をしてくれた。長楽寺の歴史などについてもいろいろ語ってくれた。お目当ての釈迦如来像は庭の中腹にあった。庭はぐるっと一周したが中央は歩いていなかった。釈迦如来像の顔を見た時、金指の宝林寺の如来像とよく似ていると思った。調べたら、山門の「長楽寺」の額の文字が独湛禅師の筆であることがわかり、仏像もその時の中国の石工の手によることが分かり、なるほどと納得した。仏像が作られ始めた約2000年前、「仏」と言えば「釈迦如来」のみでした。仏像と言えば「釈迦如来像」のことでした。がその後に誕生し悟りを開いた「薬師如来、阿弥陀如来、大日如来」の像も指すようになった。それが今では、「菩薩、明王、天部、羅漢、肖像」までもが仏像に入れられている。

釈迦如来の前身は、約2500年ほど昔、インドのヒマラヤの麓に存在した小さな釈迦族の国の王子であったので釈迦と言われた。釈迦族の一番尊い人でもあったので「釈尊」とも言われた。お釈迦様は王子として何不自由なく生活していたが、、その生活を捨てて29歳で出家し、仙人のもとで修行・苦行され、35歳の時に悟りを開き、6年間の修行で習得された悟りの教義が仏の教え、仏教で、仏教は釈迦の教えでもある。仏教誕生当時は仏と言えば仏教を開祖された釈迦如来だけで、今でもその伝統を受け継いだミヤンマー、ビルマ、スリランカでは仏教と言えば釈迦如来だけです。釈迦如来が日本では「お釈迦様」と言って親しみを感じるのは、お釈迦さんが如来の中で実在された唯一の方であり、愛らしい「誕生仏」だからでしょう。(2007・5・14)

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