寿龍院の葬頭河婆像と十王像

葬頭河婆(そうずかばば)とは、本来脱衣婆(だつえば)といい、冥土の入り口にあるという三途の川(葬頭河)の鬼婆である。十王の眷族(けんぞく)として樹下にいて亡者の衣服を剥ぎ取って樹上の懸衣翁(かけえおう)に渡し、翁はそれを枝に懸けて罪の軽減を図るという。 本像は十王の群像の一つとして彫られたものであり、十王と同じ鋸歯状の交斜線模様が刻まれた台座に座るが、十王が動きの見られない安定した姿に彫られているのに対し、右膝を立て、髪の毛は小さく鋭い曲線、衣は大きくゆったりした曲線で彫り込まれた姿は、さまざまな動きを感じる。また、彫り込みは正面にとどまらず背後にまでいきとどき、後姿だけでもその力強さが伝わる迫力に満ち溢れたものとなっている。木喰が十王や葬頭河婆を彫ったのはこの狩宿からであり、すでに日向国分寺では五智如来の群像を残したが、ここで群像に開眼して今後盛んに群像を彫るようになる。そして、台座も交斜線模様を使い始め頭髪とともに、線刻の技法も完成させている。(葬頭河婆像解説より)

十王とは冥界にあって亡者の罪業を裁判する十人の王である。亡者がその死後、初七日に秦広王、二七日に初江王、三七日に宋帝王、四七日に五官王、五七日に閻魔王、六七日に変成王、七七日に太山王、百ヶ日に平等王、一周忌に都市王、三回忌に五道転輪王と一王ずつ前をすぎて今生の所業の裁断を仰ぐという。このうち、仏教経典に見られるのは、第五番目の閻魔王、すなわち閻魔大王で、他の九王は中国の道教あるいは民間信仰から生まれた王である。本十王像の個々の王名であるが、背名に「炎魔天」とあることから判明する閻魔大王像を除いては、全て背銘が「炎王」となっており、確定できない。閻魔大王は、正面に「王」と刻まれた冠をいただき、身には道服をまとい、鋸歯状の交斜線模様が刻まれた台座に座る。他の十王もその像容は冠や両手のあつかいが異なる他は、閻魔大王とほぼ同じである。いずれの像も引き締めた口元が笑みにも見え、地獄の主である十王に対する恐怖感よりも、むしろ親しみと優しさを感じさせる。
寿龍院には葬頭河婆のほかにも行基菩薩像が昭和初期まであったとされ、本来、十二体の群像として製作されたことが知られている。なお、木喰は堀谷(浜北市)の徳泉寺にも同様の十王と葬頭河婆像を残している。(十王像解説より)

寿龍院の葬頭河婆像や十王像を残した木喰とはどんな人物なのか、インターネットの百科事典で調べてみた。
木喰は1718年(享保3年)現在の山梨県身延町の名家の次男として生まれる。14歳の時に「畑仕事に行く」と言い残して家出し江戸へ向かう。1739年(元文4年)22歳の時に現在の神奈川県伊勢原市の大山不動で出家。「木喰」と名乗るのはそれから20年後の45歳の時である。木喰が全国を旅して修行するのは56歳の時、以後北海道から九州鹿児島まで全国にわたり各地におびただしい数の仏像を残した。仏像彫刻家としてのスタートは61歳からであり、91歳まで制作をつづけたとされ、記録によれば93歳でこの世を去っている。特定の寺院や宗派に属さず、全国を遍歴して修行した遊行僧の典型である。木喰の作風は伝統的な仏像彫刻とは全く異なった様式で、ノミの跡も生々しく型破りなものだが、無駄を省いた簡素な造形の中に深い宗教的感情が表現されており、大胆なデフォルメは現代彫刻を思わせるものがある。日本各地に仏像を残し遊行僧としては円空がよく知られるが、円空の荒削りで野性的な作風に比べると、木喰の仏像は微笑を浮かべた温和なものが多いのが特色である。

寿龍院は静岡県浜松市北区引佐町狩宿658に所在するが、建物の老朽化により建て替えられ、現在は地元の公民館として使用されているようだ。取材しようとしたところ肝心の葬頭河婆像と十王像が行方不明だったが、ある団体の会議で引佐町地域自治センター(旧引佐町役場)に行った時に、たまたま昼休みに建物の中を散歩していたら、偶然にも展示場に展示されているのを発見してびっくりした。早速一週間後にカメラ持参で取材した。(2010・11・30)

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