宝林寺の如来さま

五如来

金指街道を引佐町方面へ北に上って行くと、やがて天竜浜名湖鉄道( 通称:天浜線)の踏み切りにぶつかる。踏切を渡って左に折れると天浜線の金指駅、奥山方広寺方面だが、逆の右に折れて500メートルほど東に行くと左手に初山宝林寺の門前に至る。門前の先を左に入ると宝林寺の駐車場がある。駐車場に車を停めて100メートルほど東へ山沿いの道を歩いて行くと、突然昼なお薄暗い木立の中に石の仏様数体が目の前に現れる。阿弥陀如来の立像と五如来たちである。

大日如来初山宝林寺は、江戸時代の初期、寛文4年(1664年)旗本金指近藤家二代目当主、登之助貞用(のぼりのすけさだもち)公の招きに応じ、明国の僧、独湛(どくたん)禅師によって開創された黄檗(おうばく)宗の寺院である。この時独湛禅師が大工と一緒に中国から引き連れてきた石工によって宝林寺境内とその背景の山奥に至るまで点々と中国風石仏を刻んだと言われる。今でも当時の異国の流れを汲んだ素晴しい童顔の石仏の一部が300年の風雪に耐えて立ち並んでいる。坐像、立像とも自然石を仏の姿に刻んだ素晴しい逸品であり、希に見る芸術品である。その中でも特に私は坐像の真ん中の大日如来様が大好きで、もうかれこれ5〜6回も会いに来ている。その柔和な優しい顔は何回見ても見飽きない。

大日如来は密教の中心仏であり、宇宙の根源とされている仏です。密教に於いては、あらゆる仏・菩薩もこの如来から生まれる法身仏とされてます。大日如来の名前の由来は、大日の智恵の光が、昼と夜とで状態が変化する太陽の光とは比較にならないほど大きく、この世の全てのものに智恵の光を及ぼして、あまねく一切を照らし出し、また慈悲の活動が活発で不滅永遠であることから、特に「日」に「大」を加えて「大日」と名付けられています。宝林寺の五如来は、左から阿弥陀如来、釈迦如来、大日如来、薬師如来、宝生如来の順に並んで、後ろに阿弥陀如来の立像がいます。ここの大日如来は座禅の姿で、手は法界定印を結んでいますから、胎蔵界大日如来です。

阿弥陀三石仏境内の中にも阿弥陀三石仏の立像がいます。やはり中国の石工による作です。阿弥陀如来を中央に左に大勢至菩薩、右に観世音菩薩です。阿弥陀はサンスクリット語の「アミターユス」(無限の寿命をもつもの)、アミターバ(無限の光をもつもの)を音写したもので、「無量寿仏・無量光仏」とも呼ばれ、無明の現世をあまねく照らす光の仏とされます。阿弥陀三尊として祀られるときは、脇侍に観音菩薩(観世音菩薩とも言う)、勢至菩薩(大勢至菩薩とも言う)を持ちます。この阿弥陀三尊の前に「金鳴石」と呼ばれる石が置かれている。商売繁盛、金の成る石としてお参りする人が絶えない。備え付けの小石で叩いたら「カーン」という澄んだ金属音がした。「宝くじが当たる」とも書いてあった。果たしてご利益はありやなしや。

国の重要文化財に指定されている仏殿の中にも本尊釈迦三尊像をはじめ、左右の厨子に達磨大師像、武帝像が、両側の壇上には二十四天の全神像が祀られている。中国様式を伝える黄檗宗独特の諸像である。こんなに素晴しい仏像が見られるのに、意外と訪れる人は少ない。30年程ほど前は荒れ放題だった宝林寺も、今は立派に修復され奇麗になっていた。久し振りに訪れてゆっくり見て回ることができて、すっかり心が洗われた気がした。 (2007・5・20)

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