アンドレの「デジカメで気ままにエッセイ」No.13

突然の「ガン」宣告、そして余りにも早い別れ

(冬の夜空へ旅立った姪を何とか表現してあげたくて、2月の真冬の夕暮れ時、寒風の佐鳴湖畔にたたずむ事1時間、30数枚シャッターを切り続けた中の1枚)

このエッセイは気ままに書くべきではないとの思いがずっと心の奥にあり、随分迷いました。「気まま」と言う意味を広辞苑で調べたりもしました。そして、「気まま」とは「自分の姪に対する気持ちを素直に綴ること」ではないか、と解釈し、決して忘れてはいけないあの日のことを書くことにしました。お陰で七十七日法要も無事終了しました。きっと、天国の姪も許してくれると思います。


今年の正月気分も終った1月29日午前11時半頃、会社で仕事をしている私の滅多に掛かってこない携帯電話が鳴り出した。「和子が危篤だから直ぐに病院に行って」と、妻の金切り声だ。一瞬何の事か理解が出来ず、交通事故にでも遭ったのかと思いました。落ち着いてから聞くと肺ガンだという。私には寝耳に水の話だ。和子は兄の次女、私にとっては血の通った姪である。私の長女と同じ歳だからまだ30歳だ。子供には未だ恵まれてはいなかったが3年前に結婚したばかりだ。

とにかく直ぐに聖隷病院に走った。しかし、病院についてから気がついたが、8階とだけ聞いてきただけで、A棟、B棟があり、しかも結婚して姓が変わっている事を忘れていた。咄嗟の事で姓が思い出せない。仕方が無いので名前の「和子」だけで探してもらって、やっと病室にたどり着いた。

病室に入って一瞬目を疑う姿が目に入った。ガンと聞いたから予想はしていたが、余りにも変わり果てた姪の姿がベットに横たわっていた。抗がん剤の副作用で髪の毛はなくなっていた。ベッドの上の食事を置く台の上に頭を乗せてうつ伏せになって、苦しそうにあえいでいた。この姿勢が肺を圧迫しないので一番楽なようだと言う。・・・・この子がほんとにあの可愛い姪なのか。

家族の声には小さく頷いていたから意識はしっかりしてる。こちらの声は聞こえているようだ。しかし、私にはとても声を掛ける勇気は無かった。しばらく見守ってから病室を出て、他の兄弟や、嫁ぎ先の両親のいる談話室の方に行った。そして、病気の経緯を聞いた。

昨年9月末、何か風邪気味で体調がおかしいからと、病院に行って検査を受けて、肺がんに侵されていることを初めて知ったと言う。しかし、そのとき既に手の施しようのない末期ガンと診断され、直ぐに入院したのだが。

抗がん剤を何度か投与しても若い身体の早いガン細胞の進行は止められなかった。しかも、肺ガンは呼吸器そのものだから一番厄介だ。「どうしてもっと早く私達兄弟に知らせてくれなかったのか」と兄を責めたが、「こんな姿を誰にも見せたくないから」と家族に反対されたと言う。それ以上兄には何も言えなかった。

あんなに本人が苦しんでいるのに、何もしてやれないもどかしさに、ただ話を聞くしかなかった。小康状態が続いていたので、夕方6時過ぎ、一旦食事に家に帰ることにした。食事を済ませて風呂に入ってしばらくした21時20分頃電話が鳴った。妻が出た。何か小声で話している。「まさか!」とは思ったが、そのまさかだった。21時10分、静かに息を引き取ったと言う。意識がまだしっかりしていたのに、こんなに早く天国へ行ってしまうとは思いもよらない事だった。「今夜がヤマ場です」と言った医者の言葉はやはりほんとうだった。

直ぐに病院に駆けつけた時は、あんなに苦しそうに息をしていた姪ではなかった。とても安らかな 、まだピンク色の顔をしていた。私の姪にしては鼻筋の通った、肌の綺麗な子だったから、その後綺麗に化粧をしてもらって、とても病気で苦しんだ顔ではなく、美しい顔だった。

姪のご主人の話では、1月15日の3回目の結婚記念日の前の3連休の日に、病気の身体を押して、大好きだったディズニーランドに行ったと言う。自分の命の限界を悟って、最後の我がままをご主人にねだったが、ディズニーランドの駅に着いて直ぐに体調が悪化し、そのまま浜松に引き返して入院し、1月29日、ついに帰らぬ人となってしまった。ディズニーランドで遊ぶ事は叶わなかったけど、最後の我がままを聞いてくれたご主人に感謝した事であろう。そして今頃は天国のディズニーランドで思い切り遊んでいるに違いない。

1月31日、平安閣で通夜が執り行われた。寒い夜だった。私の3人の子供達も東京から駆けつけてきてくれた。みんな一様に従姉妹の突然の死にびっくりして言葉も少なかった。子供達にとっては少なからず自分の人生観に影響を与える出来事だったに違いない。翌2月1日、しめやかに葬儀が行われた。沢山の生花に囲まれて、友達も大勢駆けつけてくれた。余りにも若い姪の突然の別れに、みんなの涙を誘った。

ご主人の勤務の関係で浜松に住んではいたが、名古屋に嫁いだ姪は、ほんとは名古屋で葬儀を行うはずだった。しかし、生前に自分の運命を悟って、「自分の葬儀は浜松でやって欲しい」とご主人に話していたと言う。本人の意思を尊重して浜松で葬儀が行われた。

姪は大人しい忍耐強い子だったから、少しばかりの体調の変化には我慢をしていたのではと悔やまれる。我が家の家系でガンで亡くなった人は聞いたことが無いのに、どうして姪だけが、しかもこんなに若くしてガンに侵されなくてはならないのだろうか。神様にも手違いがあるにしても納得できない。

親として、子供に先立たれる事ほど悲しいことは無い。兄は私達兄弟に力なくこう漏らした、「もう、夢も希望もなくなったよ」と。・・・・・・今の兄の気持ちは痛いほどよく分かるから、しばらくは慰める言葉も無かった。・・・・・今はただ、心から姪の冥福を祈るだけです。(2003・3・22)

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