アンドレの「デジカメで気ままにエッセイ」No.2

“日本三大名工「中出阪蔵」作のギター”

日本三大名工(峰澤泰三、中出阪蔵、河野賢)の1人と言われた中出阪蔵作のギター(1965年製作) ・・・・・今も胸に抱き続けている“私の最愛の恋人”です。何と言ってもうちの奥様よりも長い付き合いですからね。 しかし、流石に37年間も弾き続けていると、指板やフレットが尽きて凹んでしまって、糸巻きも割れてしまったので、昨年32千円ほど掛けて大修理をしました。表面板は画像では分かりませんが傷だらけです。

私とギターの出会いは、中学3年の時、もともと音楽が好きだった私は、急に何か楽器を習いたくなって、当時、日本楽器(現YAMAHA)の今の中沢町の本社で用務員をしていた戦争未亡人の伯母さん(母の姉・・・・・現在も95歳で健在。・・・・・残念ながら私の母は37年前に55歳の若さで他界しました。) にお願いして、ヤマハのギターを安く買ってもらったのが始まりです。確か当時3,000円でした。 本当はクラリネットが欲しかったけれど、当時でも1万円以上したのでとても親にねだるのは無理でした。結局安いギターで我慢しました。

それからは教則本を買って独学でギターの練習を始めました。若い時は上達も早いので、高校生の時は学園祭で演奏したりしました。練習しているうちに次第にギターの魅力に惹かれるようになりました。 高校を卒業してから20歳の時に神谷典孝先生(故人)の門を叩いて門下生となり、ギターを基本からしっかり勉強しました。利町の昔の市民会館(現はまホール)やその隣にあった児童会館のステージで緊張してソロ演奏をした頃が懐かしく思い出されます。

ギターに夢中になるにつれ、何でも最高のものを欲しがる私は、鍛治町の日本楽器(現YAMAHA)浜松支店のショールームに入っている外国製の輸入ギターに憧れて毎日のように覗きに行くようになりました。毎日行くので店長さんとも仲良くなり、そのギターをショールームから出して弾かせてくれるようになりました。しかし、余りにも高価でとても買う勇気がありませんでした。当時のお金で38,000円ほどでした。 (行くたびにショールームから出して弾かせてくれた店長さんに申し訳なかった)

それから暫くして、やはり買うなら手工の最高のものを、と思うようになりました。 ある日、意を決して神谷先生にお願いして、当時日本のギター製作の3大名工の1人と言われた「中出阪蔵」さんの、東京・中野区の工房に電話を入れて、ギター製作をお願いしてもらいました。2ヶ月程して夢のような手作りのギターが届きました。1965年、私が23歳の時でした。当時のお金で5万円、現在の価格にして80万円ほどでしょうか。奇しくもこの年の5月に、母が今の私より5歳も若い55歳で旅立ってしまいました。

新しいギターが来てからは、前にも増して練習に励んだのは言うまでもありません。しかし、ギターが好きということと,才能があると言う事は別のことです。門下生の中には上京してプロになった人、ギター教室を開いた人もいました。私は趣味としてギターを楽しむことにしました。 20歳の時に神谷先生に入門して、26歳で卒業しました。それからは、門下生8人(男性5人、女性3人)でギターアンサンブルを結成して、毎年秋に東京・杉並公会堂で行われた全国ギターアンサンブルのコンクールに出場しました。入賞経験こそありませんでしたが、楽しかった青春時代の懐かしい思い出です。このアンサンブルは男性は転勤などで自然消滅してしまいましたが、メンバーの一部とは今でも交流が続いています。

30歳から50歳までの20年間はどういう訳か日本の伝統音楽に魅かれて、一時、三味線に夢中になってしまい、ギターからは遠ざかってしまいました。二つの楽器に同時に夢中になるのは難しいものです。と言っても、この間全く弾いていなかった訳ではありませんが、定年を迎えた55歳頃から時間的余裕も出来て、再びギターをよく弾くようになりました。 久し振りに弾き始めた頃は指が重くて思うように弾けませんでした。20年間のブランクは矢張り大きな痛手でした。しかし、若い時に基礎をしっかり身につけたお陰で、今ではソロ活動も何とか引き受けられるようになり、2つのアンサンブル活動、昨年から始めた「音楽療法」の活動と、結構毎日充実したシニアライフを送っています。

定年になってから、何か趣味を見つけたり始めたりする事はなかなか大変です。若い時から何か一生の友となる趣味を身につけておくことが大切ですね。何事も夢中になってしまうのが私の悪い癖ですが、若い時から身につけておいたお陰で、ギター演奏を初めとした音楽と写真の趣味は私にとって生涯の友となりました。 (2003・1・17)

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