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アクトシティ物語(誕生までの道のり編)

〔はじめに〕
JR浜松駅前にベージュ色の一際高いタワーを持つアクトシティが誕生したのは、1994年10月8日。浜松市民の21世紀への夢を託すニュータウンとして、また、情報化時代を担う拠点としてオープンした。

浜松市はこれまで、「製造の街」として発展してきたが、その歩みは戦後日本の経済発展とも重なる。だが、今後は「情報化・高度技術化・国際化」という新しい時代の中で、今までとは異なった対応を迫られることになる。

浜松は今、「産業と文化の調和ある豊かな人間都市」を目指して、浜松地域テクノポリス構想、国際コンベンションシティ(会議集会都市)構想、音楽文化都市構想など、新たな都市づくりを目指している。

これらの都市での拠点がアクトシティであり、アクトをテコに情報化時代に相応しい都市への脱皮を図ろうとしている。時あたかも平成大合併を向かえ、新たな政令指定都市へと大きな変革の年を迎えた。

アクトシティへの期待
浜松市はこれまで、工業製品づくりに特化した街として発展してきた。郷土をより住みよい街にするには、物づくりに加えて、文化面の充実がどうしても必要である。・・・と、多くの市民が考えるようになった。

浜松人は、物づくりは得意だが、人をもてなす術に欠けている。アクトシティ誕生は、浜松市民が不得意だったソフト面、文化面を高める得がたい機会を与えてくれた。アクトシティが果たす役割は、21世紀に向けての浜松市が変身するための一つの“舞台”の役目である。

〔みちのり〕
アクトシティが誕生するまでの道のりを語るには、戦後の復興にまで遡らなくてはならない。1991年10月17日午後、アクトシティの工事現場で不発弾が見つかった。米国製の1トン砲弾だった。工事中、最終的に3発の不発弾が見つかった。
昭和20年、軍需工場の多かった浜松市は、全国でも有数の激しい空襲と艦砲射撃を受け、市内は焼け野原と化し、壊滅状態となった。

浜松駅前の整備の模索が始まったのは、戦後の復興が終わり、高度成長期に入った昭和30年代からである。浜松市を南北に分断していた鉄道の高架化を求める声が市民運動を上げて盛り上がっていた。折りしも新幹線建設計画が持ち上がり、在来の東海道線高架化と合わせて具体性を帯びてきた。昭和39年に新幹線が開通、新幹線問題が落ち着いたのをきっかけに、高架化運動が一気に再燃した。

〔都市計画と抱き合わせの「浜松方式」〕
駅周辺の土地の有効利用、南北交通問題の解消など、都市を大手術する、またとないチャンスである。当時の中澤都市計画部長は鉄道高架化と駅周辺区画整理を同時に行う「浜松方式」を提案した。

高架化事業には貨物駅の移転が前提である。既に10万坪の移転計画を持っていた当時の国鉄は、旧可美村に7・5万坪の土地を確保していた。残り2・5万坪の用地買収を浜松市に協力要請した。新設用地の確保が可能なら、移転によって空いた駅周辺の広大な土地を交換しようという、大胆な申し出であった。この交換で取得した土地が現在のアクトタワーが建っている15街区ー2の土地である。

こうして、昭和51年10月、西浜松駅の完成と共に浜松駅の客貨分離、悲願の高架化事業が完成した。分断していた南北交流も改善され、昭和61年12月には遠州鉄道線の高架化も完成し、東西交流も促進、飛躍への基礎固めが完成した。

〔提案型の市民運動〕
鉄道高架と区画整理によって駅周辺部に生まれた約11万7千平方メートルの広大な更地をどう生かしていくか、昭和49年の浜松市では、都心部の大改造を目指して、市長を会長とする「浜松駅周辺整備計画協議会(駅協)」が設立された。「駅周辺整備は浜松の中心部が生まれ変わる千載一隅のチャンスだ」・・・そんな思いを抱き始めたのは県の建築士会のメンバーだけではない。青年会議所会員、経済界、商店会など、様々な人々が「高架と町づくりを考える会」設立を呼びかけ、自分達で駅周辺整備プランを具体的に考え、意見交換するなど、「住民こそ地域の設計家」のキャッチフレーズで市民レベルでの研究会も精力的に活動が行われた。ここに始まる市民グループの論議と参加意識が街づくりに対する人々の意識を高め、、テクノポリス構想や、アクトシティ構想の母体にもなった。現在では、アクトシティは浜松市のシンボルから、三遠南信地域のシンボルへと広がりを見せている。

〔いよいよアクトへ秒読み〕
昭和62年、旧国鉄は分割民営化し、膨大な借金を抱えて資産を処分する為に国鉄清算事業団をスタート、同じ年に浜松駅前東街区が高度利用地区に都市計画決定された。前年に取得した14街区(楽器博物館)、17街区(立体駐車場)に引き続き、昭和63年3月に15街区ー1(大ホール、中ホール、コングレスセンター)1万5千平方メートルを国鉄清算事業団から400億円余りで取得した。しかし、払い下げの条件として、数年以内に建築物を完成するという特約条項が付いていた。構想だけは十数年がかりで検討されていた浜松駅前高度複合施設計画が、ここで一挙に具体性を持ち加速度的に進んでいった。

〔民間活力導入と強運〕
まず、計画に市民の声を取り入れようと、63年夏に「東街区整備推進協議会」を、次いで専門家を中心とする「東街区施設計画専門委員会」を設置、開発の方針と手法が検討された。「音楽文化都市構想の拠点として大・中ホール、音楽情報発信機能を整備」すると共に、テクノポリスやコンベンションシティ構想の都心部の拠点として、コングレスセンター(国際会議場)、展示イベントホール、研修・研究交流センターなど、高次な都市機能を整備し、音楽文化機能が融合した文化の香り高い風格ある都市空間の形成を図るもの」・・・方針は固まったが、巨額な費用を必要とする開発に当たっては、従来と異なる思い切った方法を選択するしかない。優れたノウハウや資金など、民間活力の導入が不可欠という点では合意していたが、どう引き込むか考えた。

〔お手本は「大宮ソニックシティ」〕
民間活力導入で一つの格好のお手本があった。埼玉県がJR大宮駅西口駅前に事業コンペ方式を取り、施設建設も運営も官民共同で行った埼玉県産業文化センター「大宮ソニックシティ」を昭和63年4月にオープンした。浜松市も、市が所有する15-2街区を民間に譲渡し、応募された提案を元に市と民間事業が協力して一体的な開発を行う「事業計画提案競技方式」を採用した。練りに練った浜松独自の工夫を盛り込んだ募集要項を平成元年8月に発表した。千数百億円というビックプロジェクト、募集期間はその年の12月4日、僅か4ヶ月という無理難題にもかかわらず119件の問い合わせが集中した。しかし、規模から言って並みの資金力、企画力ではこのコンペには応募できない。この結果、大手企業を中心とした3つのグループが生まれたが、その中で第一生命グループ(第一生命、三菱地所、ホテルオークラ、伊藤忠商事、UG都市設計、鹿島建設、清水建設、竹中工務店の9社)の提案が審査委員の全員一致で選ばれた。市有地をアクトタワー建設用地として第一生命と三菱地所に567億円で売却、この土地代金と利息で、市の施設の建設費をまかなう事ができた。

〔アクトシティの名付け親〕
コンペの応募案が最終段階を迎えた時、第一生命グループが依然としてどうしようかと頭を痛めていた問題があった。それはこの都市の呼び名をどんなものにするかということだった。名称は浜松市の新都市の性格を表わさなければならない。しかも呼びやすいものでなければならない・・・ということでは、皆の意見は一致していた。しかし、これといったものになかなか誰も行き当たらなかった。

ところが、UG設計の鈴木氏に、ある時、天の啓示にも似たチャンスが訪れた。「いったいどうしようかと徹夜までして考えていたんですが、ある朝電車の中で“ACT”(アクト)という英語が目に入った。“あ!これだ”とひらめいたんです。アクトは“行動する”という意味だし、アクター、アクトレス、アクションなど、どれもなじみ深い。瞬時にすっかり気に入ってしまったわけです」。鈴木氏は急いでACTの意義付けを試み、AはArt(芸術)、Accord(調和)、CはCommnication(コミュニケーション)、Community(コミュニティ)、Convention(コンベンション)、TはTechnology(技術)、Total Management(一体的運営管理)と定義付けてまとめ上げた。検討チームの全員が「呼びやすくていい」と賛同、第一生命グループの提出案として、正式に「ACT CITY(アクトシティ)と命名された。